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2016-02-24 16:09 最新コメント:2016-03-04 03:23
473 クミトービン殿からの返信  (3)
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クミ ト∸ビン
余命翁様、これからの時代を生き抜くために「余命三年時事日記」の情報は欠かせません。
466 全国朝鮮人学校補助金制度、回答が3件届きましたが、朝鮮学校には補助金出していなくても、生徒各自に出すような姑息な手を使ってる県や市が少なくない様ですので鵜呑みにできません。

No. 9
【東京都=東京朝鮮中高級学校、東京朝鮮第一初中級学校、東京朝鮮第四初中級学校、東京朝鮮第五初中級学校、西東京朝鮮第一初中級学校、西東京朝鮮第二初中級学校、東京朝鮮第二初級学校、東京朝鮮第三初級学校、東京朝鮮第六初級学校、東京朝鮮第九初級学校】、10校
東京都知事・舛添 要一(ますぞえ よういち)氏、都民の声総合窓口
【回答:有り、10校全てに補助金は支給していない】
東京都における朝鮮学校に対する補助金につきましては、「私立外国人学校教育運営費補助金」として、2009年度まで交付していましたが、2010年度以降、中止しております。
東京都生活文化局私学部調整担当課長 各務 豊

No.16
【愛知県=愛知朝鮮中高級学校、東春朝鮮初級学校、名古屋朝鮮初級学校、豊橋朝鮮初級学校、愛知朝鮮第七初級学校】、5校
愛知県知事・大村 秀章(おおむら ひであき)氏、政策企画局・広報公聴課
【回答:有り。補助金を支給しているとは答えない】
知事への提言に寄せられました御意見等につきましては、ホームページの【御利用にあたってのお願い】にありますように、回答を御希望される場合は、住所、氏名、メールアドレスの入力をお願いしているところでありますので御了承願います。
※住所は番地まで御記入願います。
平成28年2年22日  愛媛県広報広聴課

No.25
【山口県=山口朝鮮初中級学校】
山口県知事・村岡  嗣政(むらおか  つぐまさ)氏、知事への提言
【回答:有り。補助金は支給していない】
山口県では、朝鮮学校への補助金については、予算計上しておりません。
平成28年2月22日
山口県総務部学事文書課 TEL 083-933-2138
追加:
大阪朝鮮学校元校長、日本人拉致実行犯の金吉旭(Kim Gil Uk)のことが2006年に英語で紹介されてます。
http://www.thefreelibrary.com/LEAD%3A+Arrest+warrant+issued+for+ex-N.+Korean+spy+over+kidnapping.-a0146170142
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クミ ト∸ビン
余命翁様、これからの時代を生き抜くために「余命三年時事日記」の情報は欠かせません。
466 全国朝鮮人学校補助金制度、回答が1件届きました。

No.2
【北海道=北海道朝鮮初中高級学校】
北海道知事・高橋 はるみ氏、道政に関する相談・苦情・提案・照会・窓口
【回答:有り。補助金は、26年度、年間317万円を支給】
【27年度に関しては、回答なし】
朝鮮学校への助成についてでありますが、道といたしましては、本道で暮らす、すべての子どもたちが、国籍を問わず等しく学ぶ機会を整備していくことが大切と考えております。
 一方で、朝鮮学校の運営に関し、懸念する意見もありますことから、拉致問題などに関する教科書や授業の内容などを確認の上、補助金の交付を行ってまいりました。
 今後も、核実験や国際平和などに対する学校における教育内容の確認や指導検査を行った上で、総合的に判断し、慎重に対応していく考えであります。
なお、平成26年度(昨年度)の朝鮮学校への補助金額は、317万円となっております。】
北海道総務部法務・法人局学事課
中高専修学校グループ
電話:011-231-4111(内線:22-513)
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都民
民主党???のコメント欄に慰安婦が大金稼ぎであることを書きましたが、資料を調べる中で以下の2つも発見したので、追加させていただきます。

以下は、慰安婦が戦場で大金を稼いでいたことを示すものである。
The following indicates that comfort women made much money in the battlefields;

「女のラバウル小唄」『続戦中派の遺言女性版』櫂書房から1979年出版の中で、例えば、吉原で10年暮らした日本人慰安婦の高安やえは、「戦地へ行けば10倍稼げるし・・・・稼いだら内地に帰って商売を始めようと考えてラバウルへ・・・・一人5分と限り、一晩に200円や300円稼ぐのはわけがなかった」と回想している。
In “The song of Rabaul, Last words of women that lived in the wartime” by Kaisyobou Press published in 1979, for example, a Japanese comfort woman named Yae Takayasu who worked at Red-light district of Yoshiwara for 10 years looked back on her life, and said,“If you go to a battlefield, you can make10 times of money. After making enough money, I’ ll be back to Japan, and will open a shop….so I thought, and went to Rabaul. It was so easy for me to earn 200yen or 300yen at a night, as I limited the time to 5minutes per one person”.

更に、『文玉珠 ビルマ戦線楯師団の「慰安婦」だった私』 梨の木舎から1996年出版の本がある。本の中で韓国人慰安婦の文玉珠は、森田万智子のインタビューに以下のように言っている。
Also, there is a book titled,“Myself as a comfort woman for Tate Division deployed in the Burma Theater”by Mun Oku-chu, published by Nashinoki-sya publishing company. In the book, Machiko Morita interviewed a Korean comfort woman named文玉珠, and 文玉珠 said as follows;
※この本は英訳してあるそうです。参照は以下のサイト;https://www.facebook.com/notes/koichi-iida/%E3%83%93%E3%83%AB%E3%83%9E%E6%88%A6%E7%B7%9A-%E6%A5%AF%E5%B8%AB%E5%9B%A3%E3%81%AE%E6%85%B0%E5%AE%89%E5%A9%A6%E3%81%A0%E3%81%A3%E3%81%9F%E7%A7%81%E8%AA%9E%E3%82%8A-%E6%96%87%E7%8E%89%E7%8F%A0%E5%87%BA%E7%89%88%E7%A4%BE-%E6%A2%A8%E3%81%AE%E6%9C%A8%E8%88%8E/606052749474399/のサイトに掲載の英訳は、拡散OKとのことなのでコピーさせていただきました。

ビルマのマンダレーでの経験
63ページ
戦地の軍人たちの思いと、私たちの思いは同じだった。妻も子も命も捨てて天皇陛下のために働かねばならない、と。わたしはその人たちの心持ちがわかるから、一生懸命に慰めて、それらを紛らわしてあげるよう話をしたものだった。
An experience in Mandalay of Burma
Page 63
The soldiers and we had the same thoughts, that is, we must work hard for the emperor giving up their wives, children and even lives. I did my best to solace them by having conversation with them to ease up their mental burden very diligently based on understanding of their minds.

68ページ
私は一生懸命ヤマダイチロウの無事を祈った。二、三ヵ月して、前線からヤマダイチロウの部隊も戻ってきた。ヤマダイチロウは無事だった。すぐに慰安所にきた。「ヤマダ上等兵、無事帰還いたしました。」
ヤマダイチロウは私に向かって敬礼した。私たちは抱き合って喜んだ。そういう日はマツモト公認で、慰安所全体も大騒ぎになり、閉店休業だ。早速私たち慰安婦も一円ずつ出し合って大宴会をしたのだった。
Page 68
I prayed for safety of Ichiro Yamada. After two or three months, the troop unit to which Yamada belonged returned from the front. Yamada returned in good health. He immediately came to the comfort house. He said “I, private first class soldier Yamada, have just come back from the front”.
Yamada gave a salute to me. We hugged in full of joy. Such a day was so special that the commanding officer Matsumoto allowed the soldiers to enjoy themselves, so the comfort house was full of excitement and the work became inactive. And we, comfort women, contributed 1 yen per woman to hold a big party.

75ページ
私の手もとには少しずつもらったチップが貯まって大きな金額になった。(中略)事務を仕事にしている軍人に、私も貯金できるか尋ねると、もちろんできるという。兵隊たちも全員、給料を野戦郵便局で貯金していることを私は知っていた。貯金することにした。兵隊に頼んで判子も作ってもらい、お金を五百円預けた。わたしの名前の貯金通帳ができあがってっくると、ちゃんと五百円と書いてあった。生まれて初めての貯金だった。大邱で
小さい時から子守や物売りをして、どんなに働いても貧しい暮らしから抜け出すことができなかったわたしに、こんな大金が貯金できるなんて信じられないことだ。千円あれば大邱に小さな家が一軒買える。母に少しは楽をさせてあげられる。晴れがましくて、本当にうれしかった。貯金通帳はわたしの宝物となった。
Page 75
I saved up the tip amounting to considerable amount of money. (Snip) I asked a clerical staff whether or not I could have a saving account and put the money in the account. His reply was positive. I had known that all the soldiers put their earnings in the saving accounts in the field post office and I decided to put the money in the savings account. I asked a soldier to make a personal seal and put 500 yen in the account. I got my savings passbook and found 500 yen written on the passbook. I became the owner of the savings passbook for the first time in my life. I worked in Teague as a nanny and a street seller from the childhood but I could not rid of poverty even if I worked very hard. I could not believe that I could have so much money in the savings account. A small house in Teague costs 1,000 yen. I could let my mother have an easy life. I was very happy with joy and pride.
The savings passbook became my treasure.

アキャブ(インドに近い島)の回想
93ページ
ヤマダイチロウは一週間に一度くるはずで、その日になると、わたしは朝からウキウキしながら待っていた。反対に、約束の日に何か非常事態でも起きて勤務しなければならなくなったときなど、なにかあったのではないか、敵にやられたのではないか、と心配で何も手がつかない。何度心配したことか。
Reminiscence of Akyab, an island near to India
Page 98
Ichiro Yamada should have come once a week and I used to be in a great mood in that day from the morning. On the contrary, when he had to work on a scheduled holiday when an emergency happened, I was so much concerned wondering if something happened or he was killed by the enemy that I could not begin the job. I got anxious about him so often as it is difficult to remember how often.

ラングーンでのこと
106ページ〜107ページ
ラングーンはこれまでにくらべると自由だった。もちろんまったく自由というわけではないけれど、週に一度か月に二度、許可をもらって外出することができた。人力車に乗って買い物に行くのが楽しみだった。
(中略)ラングーンの市場で買い物をしたことは忘れられない。(中略)宝石店もあった。ビルマは宝石がたくさん出るところなので、ルビーや翡翠が安かった。友達の中には宝石をたくさん集めている人もいた。わたしも一つくらい持っていたほうがいいかと思い、思い切ってダイヤモンドを買った。
107ページ
日本の活動(映画)や内地から来た歌舞伎を観にいったこともあった。歌舞伎は衣装をたくさんつけて、男が女の役をしているのが珍しかった。
わたしはここラングーンでもすぐに売れっ子になった。将校の数も前線とはくらべものにならないくらい多かったので、宴会にたびたび呼ばれた。チップがもらえるのが楽しみで、わたしは喜んでうたいにいったものだ。In Rangoon)
Page 106~107
I could have more freedom in Rangoon compared with the past time. Of course, not completely free but I could go out once a week or twice a month with permission. It was fun to go shopping by rickshaw.
(Nips) I cannot forget the experience of shopping in a market in Rangoon. (Nips) There were jewelry shops. As Burma produced much jewels, ruby and jade were not expensive. One of my friends collected much jewels. I thought I had better have a jewel and went and bought a diamond.
Page 107
I went out to see Japanese movies and Kabuki play of which players came from the mainland of Japan. It was uncommon for me to see the players putting on many costumes and the male players portraying women’s role.
I became a popular woman in Rangoon too. The numbers of officers were much more than those near the front, so, I was often invited to parties. I was delighted with invitation to parties where I sang songs expecting much tips.

サイゴンにて
115ページ〜118ページ
二カ月ほどかかって帰国許可がでた。(中略)すぐにタイを通ってサイゴンに向かうことになった。船はサイゴンからでるのだそうだ。(中略)するとツバメがいった。「わたしも今朝夢をみたの。かあさんが病気で血を吐いていた。不吉なことが起きそうだから、私も朝鮮に帰るのをやめる」ヒロコとキファとヒフミも「それじゃ、わたしもやめる」と賛成した。(中略)帰国の許可がおりたのなら、帰らなければならなくなっていた。それは命令なのだった。帰りたくないのなら逃げるしか方法はなかったのだ。
In Saigon
Page 115~118
It took two months to get permission to return home. (Nips) It was decided to go to Saigon via Thailand. The ship was to depart from Saigon. (Nips) Then Tsubame said “I had a nightmare in the morning about my mother vomiting up blood. I am afraid that something unlucky will happen, so I will not return to Korea.” Hiroko, Kifa and Hifumi agreed with Tsubame saying “I will not return too.” (Nips) We had to go back once the permission to return to the home country is issued. It was an order. Only remaining way for someone who didn’t like to return was to run away.

120ページ
日本の軍人が出入りしているキャバレーに入った。海軍のパイロットが数人いて(中略)「どうしてこんなところにいるの」と聞く。「朝鮮に帰りたくないので、ラングーンにまた戻りたいのですが、証明書を書いてもらうにはどうすればいいでしょうか」と事情を話してたのんでみた。「自分たちにはできないけれど、司令部に行けば書いてもらえるだろう。そこを紹介してあげるから、しばらく遊んでいきなさい。」パイロットたちは御馳走してくれた。
Page 120
When I went to a cabaret where Japanese military men had often visited, some navy pilots were there (Nips) some of them asked me “why do you still stay here? I replied “I still stay here because I don’t want to go back and want to return to Rangoon.” I asked them “How can I get the certificate and can you help me?” They replied “We cannot do it but the headquarters may be able to issue the certificate. We can introduce you to the headquarters. Would you enjoy yourself here for a while?” The pilots gave a dinner for me.

121ページ
ワニ革のハンドバックとハイヒールに緑のレインコート。こんなおしゃれな恰好でサイゴンの街を闊歩した。だれがみたって、私を慰安婦だとは思わなかっただろう。いまも思い出してはなつかしく、得意になってしまう。
Page 121
I put on a pair of high heel shoes and a green raincoat and carried an alligator leather handbag. I swaggered about in a fashionable dress. No one could guess that I was a comfort woman. It is my happy memory and I felt pride.

ラングーンにて
123ページ
ラングーンはやはり大きくてきれいで、いい街だった。
軍人が自転車に乗ってやってきた。そして「ヨシコは乗れるか」と聞く。「乗れない」と答えると「教えてやろう」という。よろこんで教えてもらうことにした。(中略)私は緑のレインコートを着て、ラングーンの街をスイスイ走った。女で自転車に乗っている人などだれもいなかったので、通りをあるく人たちはみな、わたしを振り返って見ていた。ラングーンの街にでかけることは楽しみだった。わたしは、ビルマ語と朝鮮語と日本語を使って話した。買い物することくらいなら言葉で不自由することはなかった。
In Rangoon
Page 123
Rangoon was a big and beautiful city as expected. A military person came on bicycle and asked me “Hi! Yoshiko can you ride a bicycle?” I replied “No, I can’t.” He asked “Would you like to learn the riding?” I decided to learn with pleasure. (Nips) I rode it smoothly through the town of Rangoon. I didn’t see any woman on bicycle. Passersby on the street looked back on me. It was fun for me to go to the town of Rangoon. I talked with people in Burmese, Japanese and Korean. I didn’t experience any difficulty in conversation for shopping.

126ページ
酔っぱらって切りかかって来た兵長を逆に殺した。(中略)日本軍の軍法会議で正当防衛が認められて無罪となった。(中略)わたしの無罪に多くの日本人の軍人たちも喜んでくれた。
Page 126
I killed a non-commissioned officer who had drunken and tried to put me to the sword.
(Nips) I won acquittal as legitimate self-defense and many military men were pleased with the court decision of innocence.

137ページ
アユタヤの病院にいた時は母に送金もした。(中略)貯金から下ろして5000円送金した。
 係の兵隊に頼むと「貯金があるなら全部送ったほうがよい」といった。私は「あとのお金は朝鮮に帰ってからおろすからいいです」と答えておくらなかった。後にあと6000円程度残っていたはずと言っている。(1992年3月31日付フクニチ新聞)
Page 137
I sent money to my mother when I was in a hospital in Ayutthaya. I draw down 5,000 yen from the saving account and send that much money. When I asked a soldier in charge of the money transfer the transfer of money, he recommended me to transfer the total amount if I had more in the account. I didn’t transfer more replying to him that I decided not to transfer more and would transfer it when I go back to Korea. Afterwards, she said that she still had 6,000 yen in the account. (The Fukunichi dated Mar. 31, 1992)

文玉珠は、敗戦の混乱の中、彼女は預金通帳を紛失した。平成4年(1992年)に日本の郵便局を訪れ、貯金の原簿が見つかった。残高は26,145円で、貯金の返還を要求して裁判を起こした。しかし、昭和40年に預金は失効したので、敗訴した。当時の26145円は現在の貨幣価値で約1億円である!
文玉珠lost her savings passbook in the mess of defeat. Later, she visited the post office in Japan, and the original register of her savings was found.
Balance account was 26145 yen, and she brought a suit against Japan, and claimed for refund of the postal savings in the wartime. But her postal savings expired in 1965, so she lost the suit. The value of the then 26145yen is about 100 million yen now!

  1. カミカゼじゃあのさん「民主党・菅直人元総理、国際的にもテログループとしてマークされている組織と交流があるようですね?」#先生質問です
    http://www.honmotakeshi.com/archives/47907301.html?p=2

    >余命さんが推進してこられた官邸メールという方法以外にも、カミカゼじゃあのさんのtwitterによるアプローチも面白い方法だと思いました。

  2. >用心(一応)
    1 今年の三月は、日本では、法律の施行などで新たな展開が期待できそうな感じですが、韓国では、三月一日は三一節という祝日だそうです。

    参考:
    (1)三・一運動(さんいちうんどう)は、1919年3月1日に日本統治時代の朝鮮で起こった日本からの独立運動。独立万歳運動や万歳事件とも(日本では三・一事件、三・一独立運動という名称もある)。韓国では3月1日を三一節として祝日に指定している。(Wikipedia)

    (2)韓国憲法(前文抜粋):三・一運動により建立された大韓民国臨時政府の法統を継承。
    (以上、アオイ)

  3. 余命翁様、これからの時代を生き抜くために「余命三年時事日記」の情報は欠かせません。
    466 全国朝鮮人学校補助金制度、回答が1件届きました。

    総 第937号 平28年3月3日
    茨城県総務部総務課長 ( 公印省略 )
    私の提案について

    No.5
    【茨城県=茨城朝鮮初中高級学校】
    茨城県知事・橋本 昌(はしもと まさる)氏、知事直轄広報広聴課県民広報

    【回答:有り。年間160万支給が発覚後、本年は検討中】

    「朝鮮学校」に対する補助は、日本の義務教育が無償であることを考慮し、義務教育に相当する初・中級部を対象に、教育環境の維持向上、保護者の経済的負担の軽減等を目的とし、昭和 56 年度から行っております。

    また、本県を除く朝鮮学校がある 26 都道府県のうち 18 道府県(平成 26 年度実績)において、本県同様の補助が行われております。
    以上の状況を踏まえ、本県では、本年度も予算措置したところですが、執行にあたっては、国や他県の動向等を踏まえて、本年度の補助をどうするか検討してまいります。

    余命翁様、余命サポーターの皆様、花菱様、ミラーサイト様、LA 郊外より応援しています。お身体ご自愛下さいませ。

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