(参照過去記事)523「大御心と裁判官の人事評価制度①」 : 大御心について
(参照過去記事)534「大御心と裁判官の人事評価制度②」 : 裁判官人事について
最高裁長官は内閣が指名し、天皇が任命する。(憲法第6条、裁判所法第39条)
最高裁判事(長官以外の14名)は内閣が任命し、天皇が認証する。(憲法第79条、裁判所法第39条)
高裁長官は最高裁が指名し、内閣が任命し、天皇が認証する。(裁判所法第40条)
それ以外は最高裁が指名し、内閣が任命する。(裁判所法第40条)
「認証官」とは、法に基づきその任免に当たって天皇の認証が必要とされ、それをもって人事決定となる官吏をいう。
最高裁長官人事における天皇の任命は国事行為である。
国事行為とは、憲法第6条において「天皇が行うもの」として規定された行為であるが、憲法第3条により「内閣の助言と承認が必要であり、その責任は内閣が持つ」とされている。これにより憲法第4条の「天皇は国政に関する権能を有しない」こととの整合性を持たせている。
では、天皇のご意思が入らないことで政治不介入となるのなら、天皇の任命と認証は単なる「お飾り」なのだろうか?
憲法に定められる「天皇の国事行為」は第7条に規定されるもののみではあるが、天皇の「公務」は多岐にわたり「公的行為」が設けられている。公的行為は当然ながら政治への介入を意味している。
マッカーサー主動に作成された日本国憲法第4条による「政治への天皇不介入」を担保するため、天皇のご意思による関与回避や、ご意思が反映されるがために発生する責任回避が必要となるのだろう。
しかし、多くの日本人は納得することはできない。
そもそも、脈々として受け継がれて来た日本人の魂には響かない。
果たして、天皇が関与されなければならないほどの官位を持つ人事に、天皇のご意思が存在するか否かといったことを法的次元で取り繕うことに何の意味があるのだろうか?
日本の歴史を見れば、一貫して天皇と共に歩んで来たことがわかる。
日本史は神代の時から天皇と国民が一心同体で過ごして来たことを物語っている。
天皇の存在は日本人として必然であり、天皇の存在があるからこその日本人である。
我々は実の親に生を受けたことを感謝し、祖国の親(天皇)にこの地での育みと国民としての祈りを受けることを感謝する気持ちがあるからこそ、艱難辛苦の局面でも一致団結して大きな壁を乗り越えて来た。
日本は古来より何を決めようと、何を制度化しようと、どんな時の権力が国を私物化しようと、天皇の存在を抜きには行われて来なかったことは歴史が物語っている。
信長・秀吉・家康といった時代の寵児であっても天皇を避けては通っていないし、避けられる筈も無かった。事実、天皇の向こう側を見ようとした信長は、類を見ない日本人としてあるべき精神を持った明智光秀に淘汰を受けたのである。
この事実背景は日本史の謎とされているが、大御心にスポットライトを当てて紐解いてみれば歴史的必然性を感じさせるのではないだろうか。
では、古来より続いている日本人と天皇との「絆」とは何だろうか?
実の親子ならば、遺伝子やら、戸籍やら、顔が似ているから、などといった物理的側面で実証される。
ここまでご拝読頂いた読者には言うまでもないだろうが、あえて言わせていただきたい。
我々日本人と天皇の「絆」は「信頼」であり「阿吽の思い」という精神的側面でのものだ、ということを。
その上で、日本国の安寧と国民の幸せを祈っていただいている、ということを。
そして、それを一言で表したものこそが
「大御心」である。
大御心は抽象的であるがゆえに文書化することも規定化することも不可能であるが、その実証は「天皇であるがゆえの言動」「日本人であるがゆえの言動」でのみ示される。
すなわち、精神的プライオリティの基準を示し担保するものが大御心であり、それは抽象的ではあるものの日本人の共通項であり、神聖で深淵な思いなのである。
天皇の国事行為として、憲法第6条で最高裁長官とともに総理大臣を任命し、第7条で大臣の任免の認証を規定している。
すなわち、内閣が行う指名や任命にも天皇の関与があってこそ、ということになろう。
したがって、法には規定しようもないが、天皇から任命される者、認証される者、その受任者から指名される者は庶民以上に大御心を忖度し、大御心に沿って与えられた使命を果たすことこそが日本人としての在り方ではないのだろうか。
日本の中枢を担う官吏・官職のトップに与えられた大御心はトリクルダウンで下位に伝播されて当然である。
では、現実にはどうだろうか?
平成21年 天皇陛下ご即位二十年に際してのお言葉(現上皇陛下)
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拉致の問題も、それが行われた当時は今と違って、日本人皆が拉致の行われたことを事実として認識することはありませんでした。
このため、拉致が続けられ、多くの被害者が生じたことは返す返すも残念なことでした。
それぞれの人の家族の苦しみは、いかばかりであったかと思います。
(略)我が国の安寧を願い、国民の健康と幸せを祈ります。
天皇陛下は、拉致被害者問題での当事者や家族に思いを馳せて解決を願っておられる。
そのお気持ちは国民の総意であり、それこそが大御心である。
今、北朝鮮問題解決のための最良の選択肢は、国連安保理決議での北朝鮮経済制裁であることは国際的コンセンサスとなっている。
特に、日本は核問題、弾道ミサイル問題は当然ながら、拉致問題をも抱えている特別な国である。
北朝鮮への圧力は、どの国よりも率先して与えるべき立場であると言えよう。
大御心を御旗の元に、国と国民が一致団結して日本人拉致被害者を一日でも早く奪還するべきではないのだろうか。
朝鮮総連は大使館の様に政治的外交の公式窓口などではなく、単なる私的団体であり、本国北朝鮮の指示に沿って動く。
朝鮮総連が日本国・日本人のために良くも悪くも何をして来たというのだろうか。
朝鮮総連(在日朝鮮人総聯合会)
<公安調査庁による調査>
吹田事件を惹起した団体。日本共産党やオウム真理教と並んで公安調査庁の調査対象団体。
<課税減免措置特権撤廃の流れ>
従来、北朝鮮の事実上の大使館(国交が無いのに?)として地方自治体により固定資産税や都市計画税の減免措置があったが、北朝鮮が拉致問題を認めたことにより関連組織を含めた優遇措置の見直しが始まった。
(この流れにおいて弁護士会会長の朝鮮学校補助金要求声明が発せられた)
<日本の政党との関係>
日本共産党との関係はいまだに深く、社会党への接近から現在の社民党と旧民主党の一部との関係も深いと言われている。
<朝鮮学校の授業料無償化に関する工作活動>
2010.6.12 総連が朝鮮学校の生徒父母らに文科省に電話攻勢を指示。同時に、複数の日本人になりすまして電話回数を稼ぐように指示していたことが内部文書から判明。産経新聞は「総連の無償化運動がモラルを著しく逸脱し、北朝鮮同様に統制された組織動員のもとで展開していた実態が明らかになった」と評した。これに付随して、土台人(北朝鮮のスパイが拠点として利用する人間)による「朝鮮学校問題に係る在日スパイ被疑事件」が発覚し、捜査が行われた。
北朝鮮に経済制裁をするということは、朝鮮総連にもしなければ、穴の開いたバケツだという指摘は従来から然るべきして上がっているにもかかわらず、何らかの圧力でその声はかすれたままで聞こえて来ない。
朝鮮総連の支配下に置かれている朝鮮学校にも経済制裁を加えるべきなのに、日本のバケツの底は緩みっぱなしのままである。
北朝鮮支配下の団体である朝鮮総連および朝鮮学校への経済制裁をするどころか、補助金を支給せよ、無償化対象にせよ、との運動や抗議活動すら野放し状態である。
しかも、弁護士会会長という司法での重要ポストからの声明要求まで放置状態であった。
それに対して日本人として当たり前の疑義を持ち、行動を起こした者に対し、裁判所がとんでもない判決を次々に下している。
大御心を我々一般国民よりも重視して然るべき司直が大御心に弓を引いたのだ。
日本の司法は誰を見てどの方向に進もうとしているのだろうか?
北朝鮮は笑っているだろう。
世界はあきれているだろう。
司直に問う。
天皇とは何ぞや。
大御心とは何ぞや。
日本の正義とは何ぞや。
今こそ、大御心に焦点を合わせ、過去の日本人に恥じぬように日本の司法を正常化させなければならない。