「拉致されてしまったら、我慢しろ」という論理が成り立ちます。
「ブルーリボンをはずせ」というのは、救出は差別ということになります。
4か月前に岸田新総裁のブルーリボンという記事をアップしました。
理由はわかりませんが、繰り返し繰り返しよく読まれています。
当該エントリーでは、早急な拉致被害者救出のお願いと、拉致問題解決を願って弁護士会に対して行動した日本への強い想いを持つ人々が、袋叩きにあっていて、その袋叩きがいつまでもやむことなく、ついに原告サイドからの生活破壊にいたったことも訴えました。
繰り返します。この記事は今も毎日熟読されていることがわかりました。
原告の方々は法律違反はしていないと胸を張りますが、それだけのことです。
法にかなっていれば誰も止めることができない。だから止める必要がない。
であれば、何をしても良いのかという議論がいずれ起きてくることを予言します。
それと同じ文脈で司法の異常性を端的に示しているのが、大阪のブルーリボン訴訟です。裁判所の立ち位置をグーグルで検索した新聞記事に登場する方々との対比でみてみましょう。
裁判所は国家の一機関ですから、国家賠償請求となりましたが、これは厳密には司法の責任でありましょう。国家が司法をどう位置付けるかが問われています。
以下は大阪地方裁判所について、記事の見出しからわかったことの羅列です。
裁判所には見識がない
裁判所は拉致を風化させる意図がある
裁判所は都知事や警視総監とも立場が異なる
裁判所は全閣僚と考えが違う
裁判所は拉致解決への決意(を示すブルーリボン)に反対
裁判所は岸田政権の全閣僚ブルーリボン着用を否定
大阪高裁はブルーリボン着用を「ヘイトである」と禁止
総裁選ではブルーリボンを着用した候補が1位と2位、これが日本の民意