外務省情報文化局作成
国立国会図書館所蔵公文書
強制連行説は事実でない(51頁)
居住の選択は自由,帰国も自由としていたこと(56頁)
密航問題の実態(68頁)
今の差別訴訟の根拠となるものが「嘘八百だった」ということが証明されています。
裁判所は外務省=政府見解と異なる判決を乱発してどうするのでしょうか。
法務省も国益を軸に一度解体してしまった方が、日本のためになるような気がしますね。
外務省発表 第十号 および公表資料集 第八号(合冊)
外務省情報文化局 昭和三十五年二月 国立国会図書館所蔵(35.5.28)
51頁頁乃至54頁
(三) アジア,豪州関係
1 在日朝鮮人の渡来および引揚に関する経緯,
とくに,戦時中の徴用労務者について
記事資料昭和三十四年七月十一日
一,第二次大戦中内地に渡来した朝鮮人,したがってまた,現在日本に居住している朝鮮人の大部分は,日本政府が強制的に労働させるためにつれてきたものであるというような誤解や中傷が世間の一部に行われているが,右は事実に反する。実情は次のとおりである。
一九三九年末現在日本内地に居住していた朝鮮人の総数は約一〇〇万人であったが,一九四五年終戦直前にはその数は二〇〇万人に達していた。そして,
この間に増加した約一〇〇万人のうち,約七〇万人は自ら内地に職を求めてきた個別渡航と出生による自然増加によるのであり,残りの三〇万人の大部分は鉱工業,土木事業等による募集に応じて自由契約にもとづき内地に渡来したものであり,
国民徴用令により導入されたいわゆる徴用労務者の数はごく少部分である。
しかしてかれらに対しては,当時,所定の賃金等が支払われている。
元来国民徴用令は朝鮮人(当時はもちろん日本国民であった)のみに限らず,日本国民全般を対象としたものであり,日本内地ではすでに一九三九年七月に施行されたが,
朝鮮への適用は,できる限り差し控え,ようやく一九四四年九月に至って,はじめて朝鮮から内地へ送り出される労務者について実施された。
かくていわゆる朝鮮人徴用労務者が導入されたのは一九四四年九月から一九四五年三月(一九四五年三月以後は関釜間の通常運航が杜絶したためその導入は事実上困難となった)までの短期間であった。
二,終戦後,在日朝鮮人の約七十五%が朝鮮に引揚げたが,その帰還状況を段階的にみると次のとおりである。
(1) まず一九四五年八月から一九四六年三月までの間に,帰国を希望する朝鮮人は,日本政府の配船によって,約九〇万人,個別的引揚げで約五〇万人合計約一四〇万人が朝鮮へ引揚げた。右引揚げにあたっては,復員軍人,軍属および動員労務者等は特に優先的便宜が与えられた。
(2) ついで日本政府は連合国最高司令官の指令に基づき一九四六年三月には残留朝鮮人全員約六五万人について帰還希望者の有無を調査し,その結果,帰還希望者は約五〇万人ということであったが,実際に朝鮮へ引揚げたものはその約十六%,約八万人にすぎず,残余のものは自ら日本に残る途をえらんだ。
(3) なお,一九四六年三月の米ソ協定に基づき,一九四七年三月連合国最高司令官の指令により,北鮮引揚計画がたてられ,約一万人が申し込んだが,実際に北鮮へ帰還したものは三五〇人にすぎなかつた。
(4) 朝鮮戦争中は朝鮮の南北いずれの地域への帰還も行わなかつたが,休戦成立後南鮮へは常時船便があるようになつたので,一九五八年末までに数千人が南鮮へ引揚げた。北鮮へは直接の便船は依然としてないが,香港経由等で数十人が,自らの費用で,便船を見つけて,北鮮へ引揚げたのではないかと思われる。
こうして朝鮮へ引揚げずに,自らの意思で日本に残ったものの大部分は早くから日本に来住して生活基盤を築いていた者であつた。戦時中に渡来した労務者や復員軍人,軍属などは日本内地になじみが少ないだけに,終戦後日本に残ったものは極めて少数である。
三,すなわち現在登録されている在日朝鮮人の総数は約六一万であるが,最近,関係省の当局において,外国人登録票について,いちいち渡来の事情を調査した結果,右のうち戦時中に徴用労務者としてきたものは二四五人にすぎないことが明らかとなつた。そして,前述のとおり,終戦後,日本政府としては帰国を希望する朝鮮人には常時帰国の途を開き,現に帰国した者が多数ある次第であって,現在日本に居住している者は,前記二四五人を含みみな
自分の自由意思によつて日本に留つた者また日本生れのものである。したがつて現在日本政府が本人の意思に反して日本に留めているような朝鮮人は犯罪者を除き一名もない。
在日朝鮮人の来往特別内訳表
項目 人員(人)%
登録在日朝鮮人総数 六一一、〇八五
内訳
⑴所在不明のもの(一九五六年八月一日以降登録未切替) 一三、八九八
⑵ 居住地の明らかなもの 五九七、一八七 一〇〇,〇
(A) 終戦前からの残留者 三八八、三五九 六五、〇
うちわけ
(イ) 一九三九年八月以前に来往したもの 一〇七、九六六(十八、一)
(ロ) 一九三九年九月一日から一九四五年八月一五日までの
間に来往したもの 三五、〇一六(五、八)
(ハ) 来往時不明のもの 七二、〇三六(一二、一)
(ニ) 終戦前の日本生まれ 一七三、三一一(二九、〇)
(B) 終戦後の日本生まれおよび入国者 二〇八、八二八三五、〇
在日朝鮮人の渡来および引揚に関する経緯,
とくに,戦時中の徴用労務者について 原文そのまま転記
外務省発表 第十号 および公表資料集 第八号(合冊)
外務省情報文化局 昭和三十五年二月 国立国会図書館所蔵(35.5.28)
56頁頁乃至57頁
6 朝鮮への任意帰還問題について
外務省情報文化局長談昭和三十四年八月十三日
一,在日朝鮮人の任意帰還問題について,日本赤十字社代表は,本年二月十三日の閣議了解により確認された居住地選択自由の原則に基づき,ジュネーブにおいて北鮮赤十字会代表と交渉を行い,その間種々の経緯があったが,さる六月協定案について最終的に意見の一致をみ,本八月十三日カルカタにおいて両赤十字社代表間に協定の調印が行われた。
これよりさき,日本政府および日本赤十字社は,特に,本件帰還業務の公正を図り,個人の意思表明の自由の保障について万全を期するため,国際的に公平かつ中正な人道的機関であると認められている赤十字国際委員会に,その協力を依頼していたところ,八月十一日,同委員会は,右依頼を承諾するとの決定を発表した。
二,もともと本件は,基本的人権に関する問題であるので,各方面の理解と協力により,帰還業務が公正かつ円滑に行われることを希望するとともに,赤十字国際委員会が,それについて重要な役割を引受けられたことに対し,深甚な謝意を表明する。
三,この機会に,日本政府は,在日鮮人が,自からの希望で引続き日本に留まつていたいというのであれば,日本国の法令にしたがつて,そのまま留まつていてもよいし,また朝鮮へ帰りたいというのであれば,南北いずれの地域へでもその意志による自由選択によって出国することを認めるものであることを,かさねて明らかにする
6 朝鮮への任意帰還問題について 原文そのまま転記
外務省発表 第十号 および公表資料集 第八号(合冊)
外務省情報文化局 昭和三十五年二月 国立国会図書館所蔵(35.5.28)
68頁頁乃至7O頁
19 密入国朝鮮人の実態について
記事資料昭和三十四年十二月二十二日
一,終戦時日本にいた朝鮮人の本国への引揚は,終戦の翌年の昭和二十一年三月末まで大規模に行われ,この期間中に一三〇余万人が引揚げたが,その後国土が二分され経済再建がおもわしくなく生活の見通しのたたない現実に直面して帰国者数は急激に減少するに至り,これにひきかえ,朝鮮から日本に不法入国を試みる朝鮮人が二十一年春頃より次第に増加するに至り,この頃より早くも不法入国朝鮮人の強制退去問題が発生した。
二,不法入国者の送還は,占領中は,総司令部の覚書に基づき現地軍政部の指示により処理され,二十一年以降二十五年十一月まで,四六〇〇〇余人が送還された。次いで,二十五年十月,出入国管理庁が設立されるや,その後はわが国の出入国管理法令に基づいて強制送還業務が実施されるようになり,平和条約発効前の時期,すなわち二十五年十二月の第一次から二十七年三月の第七次送還までの間に不法入国者およびその他の退去強制者三、六OO余
名(終戦前からいた者で退去強制となった四四五名を含む)を韓国に送還したが,占領軍が介在していたこともあり,韓国側はこれらの送還者をすべて異議なく受け取っていた。
三,しかるに平和条約発効の後の第一回の送還(二十七年五月,通算して第八次)の際,不法入国者二八五名,終戦前からいた者で退去強制該当者一二五名を釜山に送り届けたところ,韓国側は,突然「不法入国者以外の一二五名は終戦前から日本に居住していた者でありその法的地位は日韓会談できめることになっているが,会談が中絶状態にあるので,その法的地位は未確定であるから現状においては受けとりえない」として拒否し,右一二五名は逆送還されてきた。この時以来,我が国は韓国側とたびたび交渉を進めたが順調にいかず,そのため戦後の入国者で退去強制に処せられた者,すなわち不法入国者上陸者だけの送還が続けられる一方,戦前からの在留者で刑罰法令違反により退去強制に決定した者は大村収容所に長期間の収容生活を続ける事態となった。
四,その後二十九年六月までは大体毎月一回の割で不法入国者,不法残留者だけの集団送還が続けられていたが,二十九年七月に至り,韓国政府は刑罰法令違反者として大村に長期収容されているものの即時釈放を主張するとともに,ついに不法入国者,不法残留者の受けとりまで拒否し,かくて韓国向け強制送還は全面的に停止するに至った。後に長く尾を引くに至った大村長期収容者の暴行事件やハンスト,さらにはいわゆる北鮮期間希望者の発生等
の一連の事件は,すべて,送還者の韓国側による受けとり拒否に源を発しており,もし韓国側がその国際法上の義務にしたがって,直ちに引きとっておりさえすれば,このような問題は起こらなくすんだはずである。
70頁乃至71頁
五,韓国側が二十九年七月不法入国者,不法残留の受けとりまで拒否し送還が完全にとまった後,大村被収容者数は急激に増加し,二十九年末には一,三〇〇人に達した。その後,三十年二月から四月にかけて,わが国が大村収容の刑罰法令違反者二三二名の仮放免を行ったのと交換条件で韓国側が七〇〇余名の不法入国者を引とったこともあつたが,まもなく韓国側はわが国が北鮮と接近する不信行為を行っているなどとの理由で再び受けとりを拒否する
に至った。またその頃韓国側は退去強制の決定した者でも本人の自由意志によって韓国への帰還を希望する者は受け入れるとの建前を示したので,日本側も被収容者のうち自己負担で出国したいという申し出のあった者は仮放免を許可し,その上でこれらの者が駐日韓国代表部から帰国許可を得て出国させる方法をとることとしたが,韓国側の身元調査が手間どる等の理由で,実際出国した者は三十二年一年間に六二〇名に止まり,他方,三十二年末現在
朝鮮人仮放免者の合計は二,一七七名に達した。
六,三十二年十二月三十一日,日韓間に抑留者相互釈放および全面会談再開の交渉が妥結し,「日本政府は,第二次世界大戦の終了前からわが国にひきつづいて居住している韓人で入国者収容所に収容されているものを釈放し,韓国政府は,抑留日本人漁夫を送還し,かつ第二次世界大戦後の韓人不法入国者の送還を受け入れる」こと等につき取極めも成立したので,わが国は三十三年一,二月中に大村収容中の刑罰法令違反者四七四名を仮放免し,韓国側は二月から五月の間に大村収容中の不法入国者一,〇〇三名を引きとった。
七,右十二月三十一日の取極は日韓全面会談の早期開催と日韓交渉全体の早期妥結とを前提とした措置であったが,その後日韓交渉は再び難航し,他方韓国よりの密入国者は依然あとをたたないために大村の被収容者数は再び増加の一途をたどり本年一二月十日現在一,〇八九名におよんでいる。
因に本年十一月末日現在朝鮮人で仮放免となっている者の総数は三,五七八名,うち不法入国者二,七四二名,不法残留者七六四名,刑罰法令違反者七二名となっている。
八,北鮮帰還希望者の問題
南北朝鮮の抗争は大村収容所に収容されている被退去強制者の間にも反映し,昭和二十九年七月以来韓国への送還が,韓国政府による受け入れ拒否のため停止し,長期収容という事態が発生するにおよんで,昭和三十年後半より北鮮帰還希望の意思を表明する被収容者が増加し,南鮮帰国希望者との対立,紛争激化し,同年十二月には両者の間に暴行事件が発生するに至ったので,大村収容所当局は,三十年一月保安・警備の観点から北鮮期間希望者を
別棟に収容する措置を採るのをやむなきに至りその後も南北対立に起因する事件がいく度か起こっている。
19 密入国朝鮮人の実態について 原文そのまま転記