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2018-06-05 12:01 0 comments

2546 日本人と在日朝鮮人との戦いがはじまった23(0)

引用元 

 

あまむし
【反日勢力が「日弁連」を掌握しようとした理由と、本来の日本の法体系】
今回の懲戒請求によって、「日弁連」及び「司法」が反日勢力の牙城である事が明らかになった。そして今、その「日弁連」と「司法」のあり方が問われようとしている。
この時期に当たって、何故、「日弁連」と「司法」が反日勢力の牙城となっているのかを、考えておきたい。
反日工作を行う上で、その勢力が最も重視するのは、三権分立(立法権・行政権・司法権の分立)で自治が守られている「弁護士会」である。「弁護士会」を手中に押さえることによって、この国の乗っ取りが半分完成する。
これについては、表面的な意味において理解され易いが、この「司法」の制圧という戦略には、極めて大きな意味が隠されている。日本人の考えている「法律」の意味と、西洋人の考えている「法律」の意味とは、そもそも根底から違っていることを知らねばならない。日本人にとっての「法律」は、「調和ある社会のルール」位にしか考えていないが、西洋人にとっての「法律」は、「他人を支配する〝法律〟」であり、「他人から支配される〝法律〟」という概念を根底に持っているところに、本質的な「法律」に対する概念の違いがあるのである。
つまり、日本人にとっての「法律」は、国民や他人を支配する為の「法律」という概念などないが、西洋人にとっての「法律」は、前述したように、「他人を支配する〝法律〟」であり、「他人から支配される〝法律〟」であるから、如何に「他人を支配する為に〝法律〟」を作り運用するか、また、如何に「他人からの支配を受けない様な〝法律〟」を作り運用するかが問題になって来る。この「法律」に対する概念の本質的相違を理解しない限り、我が国に起きている「法律問題」「司法問題」、さらには「憲法問題」に対する根本的な解決には至らないと考えられる。
日本における反日勢力のバックには、中共・北朝鮮・韓国の特亜三国の支援(過去に於いては旧ソ連からの支援)があり、さらにそのバックには、グローバル勢力(ユダヤ金融勢力)がある事について、『2528 あまむし①』で指摘させて頂いた。
つまり、反日勢力の思想的本源は、グローバル勢力(ユダヤ金融勢力)にあり、その思想は「ユダヤ『旧約聖書』思想」に基づくと考えられる。つまり、反日勢力の大元の思想は、「ユダヤ『旧約聖書』思想」であり、その思想の「法律(律法)による支配の構図」こそが、反日勢力の理念的(思想的)土台であるという事になる。
これから語る事は、現在の「法体系」や「日弁連」とは直接の関係がなさそうに思われるだろうが、少し我慢して御覧頂きたい。この「法律(律法)による支配の構図」を理解するには、『旧約聖書』に遡る必要がある。ユダヤ民族は「神との契約」を交わした。それが『旧約聖書』である。「神が条件(契約)を創り、人間がそれに従う」この思想が「契約の思想」である。その「神の契約」を守れば、人間は罰せられずに済み、守らなければ神から罰せられる。これが「契約(法律)」と「罪、罰」という思想の原点と考えられる。「神との契約(約束)を守らなかったことによって、アダムとイブはエデンの園から追放され、人類は〝原罪〟を背負った」という神話を彼らは創った。その「原罪」の原点にあるものは、「契約」の概念でもある。
この「神との契約を人間は守らねばならない」という思想は、自ずから、「支配・被支配」の思想として、人間同士、国同士、民族同士の間の「支配・被支配」の関係を築き上げて行く事となった。何故、西洋社会が「契約社会」であるのかの、本質的説明はこれで理解できる。
さらに、ユダヤ思想(『旧約聖書』思想)に基づいた、ユダヤ教、キリスト教(※注)、イスラム教の文化、主に西洋文明の歴史が、「侵略と戦争と奴隷」によって延々と刻まれて行ったのは、そこに原因があると断定しても過言ではない。因みに、西洋社会における「労働」の観念は、「原罪」に基づく「罰則」から来る概念であるが故に、日本民族の様に「労働」を神聖視することは出来ないのである。「労働」を「罰則」と捉える考え方も、全て西洋人の信ずる『旧約聖書』思想から発していると言える。
一方、東洋特に日本では、そのような「支配・被支配」の思想がなく、「和の精神」が中心思想として発展した。故に日本民族は「侵略と戦争と奴隷」とは無縁の歴史を築いた。そういった本質的違いが何処にあるのかと言うと、『古事記』の神話にその原点が見られる。『古事記』の思想は、『神が神々を生み、森羅万象を生み、更に天孫降臨によって神が人間の形となって天降った。その子孫の天皇も国民も全員が〝神〟が生んだ神の子孫である。森羅万象は、八百万の神として礼拝の対象となる』という思想である。故に日本民族は、全ての人と森羅万象に対して「礼」を重んじる。西洋人にはそれが不思議なのだ。日本民族にとっては、他人も森羅万象も一切が「神の兄弟」であるから、「一体」であるばかりでなく、「神聖なるもの」と感じているが故に、「支配・被支配」の概念の入り込む余地がないのである。
「神が人間を生む」という『古事記』の思想と対照的に、『旧約聖書』の思想は、「神が人間を土の塵で造った」という思想である。『古事記』は「神が人間を生んだ」(生まれた人間も結局は〝神〟)(神=人間)で「同じもの」「一体」という思想に対して、『旧約聖書』では、「神が人間を土の塵で造った」という「神は創造主で、人間は被造物」(神は支配者で、人間は被支配者)という「二元論思想」「対立思想(支配・被支配の思想)」「唯物思想」という、本質的相違を見出す事が出来るのである。
つまり、『古事記』と『旧約聖書』とは、思想の上に本質的相違を生み出したと言える。『古事記』の思想は極めて「霊的な思想」であり、『旧約聖書』の思想は極めて「唯物的思想」なのである。故に日本では霊的文明が栄え、西洋では物質文明が栄えることになった。それぞれの民族が信ずる「思想」の本質的違いの結果、日本民族とユダヤ民族は、2000年以上の歴史を通じて、正反対の経験を作った(積み重ねた)のである。どちらが幸福で平和な世界を築いたかは、今や世界中の全ての人々が理解する時代となった。その本質的相違の原点は、『古事記』の思想と、『旧約聖書』の思想の決定的違いにあると見て良いと思う。
(※注)一つ誤解を与えない為に「キリスト」について、擁護しておきたい。キリスト御自身の教えは、「人間は神の子である」と終始説いておられた。(〝主の祈り〟にある「天にまします我等の父よ」とは、神は人類の父であるという思想である、つまり、「人間は神の子供である」とキリストは説いた)
しかし、後のキリスト教会が、「人間は罪の子」(『旧約聖書』の思想)「キリストだけが神の子」だと教えて、本来のキリストの精神を歪めたのである。キリストが間違っていたのではない。「神の子」という思想は、『古事記』の「神が人間を生んだ」「神が降臨して人間となった」という思想と全く同じである。キリストは救世主として、当時のユダヤの間違った「唯物思想」(人間は土の塵で作られた被造物であるという思想)を、諭す為に出現したのであろう。しかし、当時のユダヤ人達の多くが、その事を理解できずに、(又、何かの不都合を隠すために)キリストを磔にして殺した。キリストの思想は、『古事記』の思想と基本的に同じと言えるのである。
この本質的相違から生じたのが、西洋文明(ユダヤ教文明・キリスト教文明)に見られる差別主義、迫害主義、暴力主義、侵略主義、植民地主義、奴隷制度、共産主義暴力革命、グローバル主義、銀行による通貨支配・・・等々の、国民、民族、異教徒、他国を差別して支配する所の「暴力的、物質的、金銭的支配」体制であると言える。
それに対する日本では、「絶対無私」であらせられる天皇陛下を中心とする「平和的、繁栄的、安定的、調和的国家」体制が作り上げられた。それも2600有余年もの長期間、継続して統一国家が存在しているという奇蹟が、世界史的事実として成り立っている。西洋諸国は、戦争と侵略によって、絶え間ない国家の破壊が繰り返されて来た。この相違は決定的と言える。
今、「日弁連」傘下の弁護士会による、「憲法89条」違反と疑われる「朝鮮人学校補助金支給要求声明」を見る様に、「司法」の中心的役割を持つ「日弁連」において「法の正義」が通用しなくなっている。これは「國体」を揺るがす「国家的危機」以外の何ものでもない。その根底には前述した様に、西洋の『旧約聖書』の「神が土の塵で人間を造った」とする「二元論思想」「対立思想」「支配・被支配思想」「唯物思想」があり、その思想に基づいた「司法」の制圧であることを指摘した。
本来、「法律」とは、「宇宙の法則」「原因結果の法則」「自然の摂理」を社会生活上に体現したものである筈である。即ち「法律」とは、自然と調和したものである筈であり、全ての人々の社会生活を幸福ならしめるためのものである筈である。
日本における「憲法」の根源は、聖徳太子の『十七条憲法』に見られるように、《和を以って貴しとなし、忤(さから)うこと無きを宗とせよ。》(和をなによりも大切なものとし、いさかいをおこさぬことを根本としなさい)という〝和の精神〟に代表されると言って良い。実に自然な法律であり、どこにも無理が無い。又、明治天皇の勅命により布告された『五箇条の御誓文』には次の様に記されている。
一、広く会議を興し、万機公論に決すべし。
一、上下心を一にして、さかんに経綸を行うべし。
一、官武一途庶民にいたるまで、おのおのその志を遂げ、人心をして倦まざらしめんことを要す。
一、旧来の陋習を破り、天地の公道に基づくべし。
一、智識を世界に求め、大いに皇基を振起すべし。
なんと、厳粛にしておおらかな誓約であろうか。かくの如きが、本来の日本における「法」の原点であるべきである。それは何故かと言うと、前述したように、日本民族が抱いている「神が森羅万象と人間を〝生んだ〟」という根本思想に基づいている為である。
しかし、戦後の占領軍の日本弱体化政策によって、明治憲法を始めとする、良き日本の法体系は破壊され、欧米の「支配・被支配の思想」と「唯物思想」に基づく法体系にすり替えられたのである。そして、その西洋思想(『旧約聖書』思想)の「支配・被支配の思想」「唯物思想」が蔓延したことの結果として、今日の反日思想の跋扈となっている。如何に「法体系」が重要であるかという〝教訓〟である。その「法体系」の核となるものは、如何なる〝思想〟に基づいて「法律」を制定するか、如何なる〝精神〟に基づいて、その「法律」を運用遵守するかにかかっている。
反日勢力の牙城と化した「日弁連」は、この様な「ユダヤ唯物思想」(『旧約聖書』思想)の「支配の為の契約」概念に基づき運用していることが、本質的に問題なのである。 それに対して、日本本来の「法体系」は、日本文化の伝統である「和の精神」(調和と生かし合い)の世界観に基づいたものである。キリスト的に言えば、日本文化は「神の愛」の文化である。確かに日本ほど、「神の愛」(天皇の愛)に満ち溢れた国家はないであろう。この「神の愛」(天皇の愛)に満ち溢れた素晴らしい国家を破壊したのが、先の大戦であり、それを仕組んだものは、ユダヤ共産主義=国際金融勢力=反日勢力であったのである。
今「日弁連」の反日支配の実体が悉く暴露されているのは、戦後73年間続いた『旧約聖書』を根源とする、西洋の「唯物思想・支配思想」に基づく「法体系」が、如何に間違ったものであったかの結果の証明であり、それらの「悪業」が破壊される時期が来ていることを、如実に示していると言える。
そして、その先にある世界は、日本本来の「和の精神」に基づく「法体系」の確立と運用であると、小生は信ずる。安倍総理の「日本再生」と、余命プロジェクトは、「日本本来の国のあり方」への回帰でありましょう。安倍総理と余命プロジェクトの関係者に心からの感謝を捧げます。感謝合掌(あまむし)

 

慶子
お忙しいところ長文になりそうな事、申し訳ありません。
花水木法律事務所ブログ 2017年01月23日 00:00 小林正啓弁護士
タイトルが消えてしまってました。多分、弁護士自治必要論についてだったと思います。『』⬅は私が入れました。
大阪弁護士会報の2016年12月号が、弁護士自治の特集記事を組んでいる。
弁護士自治は「なぜ大切なのか」「どんな利点があるのか」「無くなったらどうなるのか」について考えてみる(前書きより)として、金子武嗣もと会長が弁護士自治の理論的根拠等を、日本を代表する刑事弁護士の一人である後藤貞人弁護士が刑事弁護との関係を、竹岡登美男もと副会長が弁護士法72条との関係を、それぞれ論じている。
特集が組まれた背景には、編集部も言及しているとおり、『自治不要論が会員自身から発生している』、という危機感がある。だが、不要論に対峙するそれぞれの論考は、首肯しうる内容を含んでいるものの、やや物足りない。
問題は、「なぜ自治不要論が弁護士自身から出ているのか」という原因の特定ができていないからだと考える。端的に言えば、『自治の対価としての会費が高すぎる』ことが原因なのに、これに正面から向き合っていない。
金子もと会長は論考の中で一カ所のみ会費の問題に触れ、「(弁護士会費は)合理的なものでなければなりませんが、安ければいいということにはならない」と述べている。しかし、この言い回しは論点を微妙にはぐらかしていると思う。「安ければいい」かどうかが問題ではない。「高すぎる」か否かが問題なのだ。
知らない人のために付言すれば、『年額60万円(東京大阪などの場合)ないし100万円超(地方弁護士会の場合)もの会費を負担するくらいなら自治はいらない、という会員の声』に、どう答えるかが問題なのだ。さらにいいかえるなら、『弁護士自治は、年会費60万円ないし100万円超に値するのか』、という問題である。
金子もと会長は、弁護士自治の理論的根拠として、「弁護士の地位(ステータス)が高いのは、国家権力から独立した弁護士や弁護士会の活動が市民に信頼されているから」であると述べる。
ここでいう地位(ステータス)とは何を指すのか、はたして「高い」といえるのか、『市民から信頼されているして、その根拠が弁護士会活動にあるのか』、など、検証を要する点が多々あることは差し置いても、仮にそうだとして、それが『現在の自治制度を論理必然的な前提にしているのか』、については、さまざまな批判が可能だろう。たとえば医師や高級官僚の「地位(ステータス)」が高いことや、彼らの社会的意義に異論はないと思うが、だからといって彼らの所属する組織が弁護士会並みの自治権を保障されているかといえば、そんなことはない。
竹岡もと副会長は、『最高裁判小昭和46年7月14日判決を引用し、「弁護士は、基本的人権の擁護と社会正義の実現、ひろく法律事務を行うため厳格な資格要件が設けられ、かつ、かつ、その職務の誠実適正な遂行のため必要な規律に服」しているからこそ、法律事務の独占(弁護士法72条)が認められている』、と説く。
たしかに、この判決は当時の弁護士自治に基づく「規律」の存在を前提としているが、『職務独占に必要な「規律」が論理必然的に「自治がされた弁護士会による規律」を意味するわけではない』。いいかえれば、『弁護士による職務独占を法定する以上、弁護士の質の確保は国民に対する国家の義務である』『が、その手段を弁護士自治に委ねるのか、そうでないかは政策問題である』。
弁護士自治必要論は、必ず英国における弁護士自治崩壊に言及する。金子元副会長の論考も例外ではない。だが、「弁護士自治が崩壊して誰がどのように困ったのか?」まで調査しなければ、弁護士自治必要論の論拠にはならない。
英国における弁護士自治崩壊(2007)から10年経つのだから、評価は可能なはずであるが、寡聞にして「自治崩壊(剥奪)は失敗であった」との論調を聞かない(EU加盟は失敗であった、との論調は聞くのに!)。誰も困らなかったなら、英国の弁護士自治はその程度だったことになる。いうまでもないが、困ったのが弁護士だけだとしても、政策的失敗とは言わない。
弁護士自治必要論は、「基本的人権の擁護と社会的正義の実現のために、わが国は世界最高度の弁護士自治を保障した」と述べる。だが、それならば、『弁護士自治獲得からほぼ70年経った今、わが国では弁護士自治によって、世界最高度の人権と社会正義が実現されたのか?という問いに、真摯に向き合わなければならない』。『もしそうでないとすれば、何が間違っていたのか、何が不足なのか、何が余計だったのかが論じられなければならない』。
私の考えでは、弁護士自治は、憲法が定める司法権の独立の一環として、保障されるべきものであろう。その意味では、刑事弁護活動の自由を守るため弁護士自治が必要とする後藤弁護士の論考に異論はない(もとより、刑事弁護に限られる問題ではないが)。したがって、『弁護士自治の本質は、弁護士の訴訟活動の独立に存在する』ことになろう。
『訴訟活動の独立を保障するためには、訴訟に関連する活動の独立も保障されることが望ましい』。そして、これらの『独立を保障する限りにおいて、弁護士会の懲戒権は、国家権力から独立していなければならない』。『但し、訴訟活動と無関係な非行に関する懲戒権まで弁護士会が独占することは、弁護士自治の本質的要請ではない』。
また、懲戒権の独占を含む自治権が保障されていることを前提とした場合、『弁護士会が会員に対する監督を怠り』、『そのために国民の弁護士に対する信頼が低下すれば、弁護士法72条の廃止が俎上に上る』ことになろう。しかし、『国民の弁護士に対する信頼を確保する手段が、弁護士自治に限られないとすれば、弁護士自治と弁護士法72条は関係がない(少なくとも関係が薄い/直接の関係はない)ということになる』。そうだとすれば、弁護士自治がどの程度保障されなければならないか、いいかえれば、『世界最高度の弁護士自治まで必要か否かは、会員から見ればコストメリットの問題に帰着することになる』。
たとえば『極端な話、弁護士会が人事権の自治を一部放棄して法務省や裁判所から全国で数百人規模の天下りを受け入れれば、法曹人口問題など、あっという間に解決するだろう』。『そちらのメリットが大きいということになれば、喜んで自治放棄に応じる弁護士は少なくないと思う』。
金子もと会長や竹岡もと副会長には、個人的にも大変お世話になっているので、公然と異論を述べることはやや憚られるが、笑って許してくれるものと思う。なぜなら、これらの論考をまともに読んで批判してくれるだけ、自治必要論にとってありがたいことだからだ。『多くの会員、特に若手の大部分は、もはや自治なんてどうでもよいと思っている』。要否程度を議論する手間暇が鬱陶しいだけだ。『弁護士自治にとって最大の脅威は、不要論があることではなく、会員の無関心なのである』。

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弁護士
先程、小林弁護士さん著の「こんな日弁連に誰がした?」が届きました。他に急ぎのものがあるのであとがきのみに目を通し、文章に透明感を感じたので検索してみたら、ブログがありました。
この方も懲戒請求対象になっていましたか? 弁護士全員だったはずなのでご意見をお訊きしたいと思いました。どうも日弁連(総会)臨時総会等は、議案書に目を通したりせずに、日弁連執行部の考えることなら間違いはないだろうと信じて、執行部一任の委任状を出し続けたと記載があるので、朝鮮学校補助金支給要請声明時も委任状で縛っていそうですが、分かりません。
それと、何日か前の余命ブログで瀬戸先生に言及されてましたが、「ひと目でわかる慰安婦問題の真実」を大和会から送って頂いた時、お礼の葉書に、今気になるのは瀬戸先生だけですと入れました。その後、生コン関連の動画を視る機会があっても何も感じる事なく過ぎましたが、瀬戸先生との連携はないとのコメントを見た時に、経済的な問題等があるのかな?と思いました。
私の希望ですが、訴訟、要するに裁判に対する不安を述べられる当事者が皆無ではなさそうなので、余命ブログにコメントOKにすると良い気がしました。鬱になった方も居られるようです。懲戒請求者ご本人かどうかは判りませんが、辛いとコメントするのは反日にはならないと思います。他のブログで何度か見ているので、弁護士側に利用されるより良い方法があれば、発信するのも可と思いました。
このコメント等は余計なお世話のなにものでもない、と思いながら書き込んでいます。私自身も当事者ですので訴訟迄の時間が無くなりながら、絶対に負けたくないと思っています。
ただ一縷の望みは、余命ブログが懲戒請求者達を煽った事を、神原弁護士さん達は膨大で辟易しそうな長文ブログから証拠として探し出し、確定させなければなりません。裁判所側も読まなければならないですね。敵側には拷問に近いかな?思いがけない時間がかかると思いますが、プロなのであっという間かもしれません。素人の甘い期待は危険ですね。拷問とか書いてすみません。

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