あまむし
【日本精神(和の精神=神が神々と人間と自然を生む思想)の復興がキーポイント】
「2605 2018/07/16アラカルト①」〝イオンのバベル〟氏の投稿文を拝見させて頂きました。反日勢力と共産主義革命の実体を知る上で、示唆に富む素晴らしい考察であると感心いたしました。
《もし、上部構造自らがその状態を目指すとすれば、自らを消滅させること-破壊させることになる。さらにいえばこれは上部構造の自爆である。このように上部構造の上部構造による上部構造に対する完全なテロリズムが上部構造による共産主義革命である。このように理解すれば、これは様々な巧妙な逆説的論理や情報操作などを用いて、長期間にわたって上部構造を徐々に衰滅させていくようなことも革命なのである。それは労働者が行うような単純な暴力的革命である必要は全くない。・・・・これが上部構造における隠れ共産主義を可能にしている理由であり、それは個人の内面に関わる問題であるがゆえに、それを他者が把握することは非常に困難なのである。》全く御指摘の通りと思います。
ここに指摘されているところの、《上部構造における隠れ共産主義を可能にしている》《上部構造の自爆》が、何故行なわれているのかについて、さらに考察を進めてみたいと思う次第です。
「上部構造」を構成せしめている存在とは、「人間の意識」に外ならない。人間社会において、その構造形態を作り上げている原因は、それを構成している所の〝人間〟であり、その〝人間の意識〟〝人間の意志決定〟が、その社会構造を決定していることは、否定できない事実である。唯物論者は、その原因を〝環境や物質的条件〟であると主張するだろうが、〝環境や物質的条件〟は〝人間の意志決定〟の前提としての意味は大きいが、〝人間の意志決定〟そのものではないのであり、〝人間の意志決定〟は、〝環境や物質的条件〟を完全に超越しているのである。何故なら、〝人間の意志決定〟こそが、〝人間の創造活動〟の原動力であるからである。もし、唯物論者が言う様に、〝環境や物質的条件〟だけによって、社会構造が決定されるのであれば、もはや人間は〝物質的法則〟によって左右される機械的存在であり、〝人間の自由意志や創造力〟は存在しない事になってしまう。 しかし、現実的にそんなことは全くあり得ないが故に、唯物論者の説は完全に否定せざるを得ないと言える。(マルクスの称えた〝唯物史観〟なるものは、この間違った唯物的ドグマに基づく〝捏造物〟であるが故に、社会的大混乱をこの一世紀人類は経験したのである。)
つまり〝人間の意志決定〟こそが、「上部構造」のみならず、一切の社会構造を決定する主要な原因(要素)であるということになる。では、何故《上部構造の自爆》つまり「上部構造の主要な原因(要素)たる〝人間の意志決定〟の自爆」行為が、意識的もしくは無意識的に行なわれているのかを、考察しなければならない。「自爆行為」とは「自己否定(自己破壊)」に外ならない。「自己否定」が何故生ずるかと言うと、それは「自己の存在を嫌っている」からである。人間と言うものは極めて単純なものであり、「嫌っていない」存在に対しては、「否定」の感情は起こらないように出来ている。「自爆行為(自己否定)」が行なわれているのは、その「上部構造」を構成している「構成要因」が「自らの存在を嫌っている」からに外ならないと言える。
では何故「上部構造の存在を、構成要因自らが嫌っているのか」について考察しなければならなくなる。その答えも極めて単純と言える。それは、「自らが構成している〝上部構造〟の存在意義」について、「価値を認めていない」からと言える。人間は「価値を認めない」事に対しては、「嫌う」という基本的感情が生ずるのである。言葉を変えれば「愛していない」とも言える。「愛している」というのは、「価値を認めている」ことの別名とも言える。例えば、道端に〝小判〟が捨ててあったとする。それを見た猫は〝小判〟を愛さずに素通りするだろう。それは何故か。猫は〝小判〟の価値を認める事ができないからに外ならない。しかし、多くの人間は〝小判〟に価値を認めるであろうから、〝小判〟を愛して拾い上げようとする。「猫に小判」は誰でも認める真理であるが、「価値の本質」を見つけることのできない人間も又、猫と同じく「大切な価値」をみすみす捨て去る事になるのは、仕方がないことと言える。
つまり、「上部構造の自爆」を目指そうとしている構成要因の心理状態は、「上部構造を嫌っている(愛していない)」からであり、それは「上部構造の価値を認められない」からであると言い得るのである。故に、意識的にせよ、無意識的にせよ、「上部構造の自爆(否定・破壊)」をせざるを得なくなるのである。
では、「上部構造の価値を認められない」とは、一体どういう事かと言うと、「上部構造の価値を知らない」ということと同義である。ここで、「上部構造」とは一体何を差しているかを確認しておきたい。〝イオンのバベル〟氏は《資本主義社会の上部構造に属する人々 、すなわち政界、官界、教育界、学会、法曹界、マスコミなど》と指摘されている。つまり、「上部構造」とは、「資本主義社会の上部構造」と書かれているのであるが、実際的に破壊されている実体(ターゲット)は、「日本社会における上部構造」である。つまり、「共産主義革命」の目的は、「資本主義社会の破壊」の様に見えてはいるが、「国家の破壊」であり、日本においては「日本国家(日本の価値観)の破壊」ということになる。
結局、「上部構造の価値を知らない」という意味は、「日本天皇、日本国家、日本民族、日本の歴史、日本の文化伝統、日本精神、日本の使命等を知らない」ということになるのである。さらに、《その中にはかなり無意識的な共産主義者もいるだろう。それ以外の人々にその影響は計り知れないほどを及ぼされている。無意識的な影響の連鎖となると、ある保守の論客が言ったように「思想ウィルス」として伝染していく、と捉えるのが良いのかもしれない。》との、〝イオンのバベル〟氏の御指摘は的確であり、「思想」の問題に帰結するのである。
ここで一つの結論を述べるとすれば、その「思想」の問題とは、「日本の価値観(日本天皇、日本国家、日本民族、日本の歴史、日本の文化伝統、日本精神、日本の使命等)」の欠落(無知)ということになるのである。
それでは「思想ウィルス」が伝染する条件と、伝染しない条件を明確化させておかねばならない。それは簡単である。「日本の価値観(日本天皇、日本国家、日本民族、日本の歴史、日本の文化伝統、日本精神、日本の使命等)」を自覚(保有)している人間に対しては、「思想ウィルス」は伝染しないのである。
何故なら、「ウィルス」とは、「病原菌(害を与える存在)」に対する〝抗体(免疫性)〟を所持していれば、「ウィルス」は伝染し得ないからである。「ウィルス」が伝染するということは、その人間が〝抗体(免疫性)〟を持っていない、つまり、「その病原菌には害がある」という事実を知らないから、その「病原菌」の体内侵入を無抵抗に許してしまうのである。そして感染して自己の身体を害する。「ウィルス」に対する伝染を防止する方法は、「害を及ぼす病原菌に対する知識を所持しておくこと」、つまり〝抗体(免疫性)〟を備えることによると言い得る。「反日思想ウィルス」に対する〝抗体(免疫性)〟とは、「反日思想ウィルスには害がある」と知る事であり、その為には、「日本の価値観(日本天皇、日本国家、日本民族、日本の歴史、日本の文化伝統、日本精神、日本の使命等)」を明確に知ることと言える。
〝イオンのバベル〟氏の考察を進めた結果、「上部構造の自爆(否定・破壊)」の原因が、「日本の価値観(日本天皇、日本国家、日本民族、日本の歴史、日本の文化伝統、日本精神、日本の使命等)」の欠落(忘却・無知)に行き着くことが判明した。そして、「反日思想ウィルス」の伝染を防止する方法は、究極の所「日本の価値観(日本天皇、日本国家、日本民族、日本の歴史、日本の文化伝統、日本精神、日本の使命等)」を知る事であり、呼び覚ますことであることが判明したのではないだろうか。
次にもう一つ重要な問題を考察しておかねばならない。それは、「資本主義社会」と「日本社会」の違いについてである。一見この両者は同一視され勝ちだが、実は全く別物と言える。〝イオンのバベル〟氏も、《つまり、日本以外の西洋などでは、その階級差から来る不平等を是正しようという動きが強く生じる。そこからマルクス主義などの共産主義思想が生まれてきたのである。
その前提となる社会状況が、西洋と日本ではすでに異なっている。これはどういうことかというと、西洋が社会主義、共産主義思想などでめざした社会状況は日本ではある程度達成されており、日本における保守とはすでにこの達成された状況を守ることなのである。 これが戦後、保守政党である自民党が西洋における社会民主主義的な政策を実行できた理由ではないだろうか。》と指摘されている通り、日本社会は「支配・被支配」の構造を持っていない、世界的に見て極めて特殊な国家構造(価値観)を持っていることを、まず理解しておかねばならないであろう。
現代世界において、世界は「資本主義社会」と、その対極に位置する所の「共産主義社会」又は「社会主義社会」によって構成されているかの様に見えるが、実は、「資本主義社会」も「共産主義社会」「社会主義社会」も、その根底においては、同一の思想源流から派生したものであることを理解しておかねばならない。
それは何かと言うと、「支配・被支配」の「唯物二元論」思想に基づいている、ということである。その思想的源流は、『旧約聖書』文明に由来していると言える。その思想は、(1) 「神が土の塵から人間を創った」という「物質人間(唯物)思想」と「支配・被支配(二元論)思想」、(2) 「神の約束(契約)を人間が破った為に〝原罪〟が存在する」という、「原罪思想」に象徴されている。この「物質人間(唯物)思想」と「支配・被支配(二元論)思想」と「原罪思想」によって、「資本家」が「労働者」を搾取するという「支配・被支配」に基づく「資本主義思想」が生れ、一方に於いて、「唯物史観」に基づくマルクスの「共産主義思想」が生まれたと考えられる。共に、『旧約聖書』を信ずる所の「ユダヤ人」による創作物と考えてよい。
この「資本主義社会」と「共産主義社会(その同系列としての社会主義社会)」の両者は、互いに対立しつつ、両者間での闘争の繰り返しによって、「原罪の贖罪作用」(罪があると信じているが故に、苦しむことによって、その罪を消そうとする行為)で、不幸を招いていると観察し得る。
つまり、精神分析的に見れば、これらは「自己破壊願望」と言える。世界の過去の歴史は、この二極対立(資本主義と共産主義等の二極対立)に基づく、「闘争」と「支配・被支配」の歴史であり、それは人類の「自己破壊願望」の苦しみの歴史とも考えられる。
この「唯物二元論」に基づく「二極対立の闘争の歴史」を、どのように解決すべきかという切実な課題に対する〝答え〟を、人類は今まさに求めていると言える。
一方、日本古来からの思想を最も簡単な言葉で表現するとすれば、それは『古事記』で語られている通り、「神が神々を生む」「神が人間を生む」「神が自然を生む」という「生む思想」と言い得る。この「生む思想」とは、「生む神」と「生まれた神々」「生まれた人間」「生まれた自然」の一切は、「親なる神」と同根の「神」であるということになる。 「親豚が生んだ子豚は、同根の〝豚〟である」のと同様に、「神が生んだ人間は、〝神〟である」という事にならざるを得ない。
この思想は言わば「唯神一元論」とでも言い得るものである。ここで注目すべきは、『旧約聖書』の思想は「神が人間を土の塵で創った」という思想であり、『古事記』の思想は「神が人間を含む一切万物を〝生んだ〟」という思想の、根本的相違である。前者は「唯物二元論」とも言うべき思想であり、後者は「唯神一元論」とも言うべき思想である。この思想の違いが、それを信ずる人間(民族)の幸不幸を大きく左右するのである。
即ち、日本古来の『古事記』の思想には、「支配・被支配」「唯物二元論」「原罪」の思想は元々無いのであって、『旧約聖書』文明の「支配・被支配」「唯物二元論」「原罪」の思想とは、全く対極に位置する思想と言える。従って、「日本社会」の根源に位置する思想には、「支配・被支配」「唯物二元論」「原罪」の思想が無く、その真逆の「一体(愛)」「唯神一元論」「罪無し(禊祓いで罪が消える)」という思想なのである。ユダヤ民族と日本民族の双方が、過去数千年に経験した歴史的実証を観察すれば、それらの思想の違いによる影響力の相違は歴然としていることに、誰しも疑いの余地がない程である。
以上の考察によれば、「資本主義社会」と「日本社会」の違いとは、『旧約聖書』と『古事記』の思想の違いであると言い得る。
前者は「支配・被支配」「唯物二元論」「原罪」の思想であり、後者は、「一体(愛)」「唯神一元論」「罪無し(禊祓いで罪が消える)」の思想と言い得る。因みに釈迦やキリストが説かれた思想は、後者の思想に属すると言うべきと考えられる。
しかし、残念ながら、特にキリスト死後の〝キリスト教会〟の説く教えは、『旧約聖書』の「原罪」の思想、「支配・被支配」の「唯物二元論」の思想を払拭しきれないが為に、前者の思想を色濃く反映していると観察される。
又、一部仏教思想においては、釈迦が前半生で説かれたところの「小乗仏教的思想」を色濃く説いている為に、釈迦が晩年に説かれた「大乗仏教的思想」の真髄に穿ち入らない恨みがある。小生の観察によれば、『古事記』の思想は、釈迦やキリストが説かれた思想に属する物であると考えられる。人類文明は、『旧約聖書』的前者の思想から、「釈迦」「キリスト」『古事記』的後者の思想によって、完成して行くものと考察される。
〝イオンのバベル〟氏御指摘の《つまり、日本以外の西洋などでは、その階級差から来る不平等を是正しようという動きが強く生じる。そこからマルクス主義などの共産主義思想が生まれてきたのである。その前提となる社会状況が、西洋と日本ではすでに異なっている。
これはどういうことかというと、西洋が社会主義、共産主義思想などでめざした社会状況は日本ではある程度達成されており、日本における保守とはすでにこの達成された状況を守ることなのである。これが戦後、保守政党である自民党が西洋における社会民主主義的な政策を実行できた理由ではないだろうか。》という意味は、以上の考察によって、理解できるのではないだろうか。
つまり、「資本主義社会」と「日本社会」は、決定的に違いがあるのであり、現在社会の一時期的側面から見ると、一見「資本主義社会」と「日本社会」は同一のように受け止められ勝ちであるが、実は全く異質なものであることを、「日本民族として」よくよく理解しておく必要があると考えられる。
さらに、前述した如く、『旧約聖書』を信ずる所の「ユダヤ人」による創作物である、「資本主義制度」と「共産主義制度(社会主義制度)」は、その本質において、同一のものであることを理解しておく必要がある。昨今この事実は明確に証明されつつあり、元ウクライナ大使の馬渕睦夫氏は、「グローバル主義(資本主義)」と「共産主義」は同根である事を立証しておられるので、是非共、馬渕氏の講演記録や著書を参考にされたい。
さらに、《共産主義に染まった人間が法曹界に入るということは、法を守るためではなく、破壊するために入るのです。上部構造の消滅ということが前提にあるので、どのような矛盾した行為も正当化されます 。法律の恣意的な解釈、運営も当たり前のことなのです。》と、〝イオンのバベル〟氏御指摘のように、現状の「司法」の概念自体が、「国家破壊」や「支配」を目的とした存在であることを知らねばならない。これら「西欧の法の概念」は、『旧約聖書』の思想(ユダヤ思想)から派生したものであり、「日本古来の法の概念」とは本質的に相違していることを理解しておかねばならないと考えられる。
〝あまむし〟の過去の投稿で、《この「法律(律法)による支配の構図」を理解するには、『旧約聖書』に遡る必要がある。ユダヤ民族は「神との契約」を交わした。それが『旧約聖書』である。「神が条件(契約)を創り、人間がそれに従う」この思想が「契約の思想」である。・・・この「神との契約を人間は守らねばならない」という思想は、自ずから、「支配・被支配」の思想として、人間同士、国同士、民族同士の間の「支配・被支配」の関係を築き上げて行く事となった。何故、西洋社会が「契約社会」であるのかの、本質的説明はこれで理解できる。》と記した様に、ユダヤ人が活用した「司法」の目的は、「国家破壊」と「支配」にあると言える。
一方において、「日本古来の法の概念」は、『古事記』の思想である「唯神一元論」から派生しているものであり、「『旧約聖書』派生の法の概念」とは、全く相違していることを知らねばならないであろう。
(余命「2546」の「あまむし」投稿文参照。ttp://yh649490005.xsrv.jp/public_html/2018/06/05/2546-日本人と在日朝鮮人との戦いがはじまった23/)
「国家破壊」と「支配」の概念の上に立った「司法」「日弁連」が、本質的に「反日勢力」であり、「日本国家破壊」の衝動に駆られているのは、至極当然と言える。
「日弁連」の弁護士諸氏が、何故「反日的工作」を無意識的にせよ行なっているかというと、『旧約聖書』思想に基づく「法の概念」に、洗脳されているからと言えるのである。 何故そうなるかと言えば、今回この考察で論じた様に、彼らが「日本の価値観(日本天皇、日本国家、日本民族、日本の歴史、日本の文化伝統、日本精神、日本の使命等)」の欠落(忘却・無知)という罠に嵌まってしまったことが、最大の原因であると言えるのである。
さらに、それは何故であるかと言えば、戦後73年間に亘る「洗脳教育」「マスコミによる洗脳」「日本の価値観の破壊」によるのである。
このような事を阻止するには、「日本の価値観(日本天皇、日本国家、日本民族、日本の歴史、日本の文化伝統、日本精神、日本の使命等)」の復活が必須であり、「法の概念」にあっては、聖徳太子の『十七条憲法』や、明治天皇の『五箇条の御誓文』に見られるような、「日本精神(和の精神=神が神々と人間と自然を生む思想)」に基づくところの、『日本古来の法の概念』を取り戻す必要があるのである。
結局のところ、安倍総理や余命プロジェクトの方向性は、誠に正しいと言える。「日本精神(和の精神=神が神々と人間と自然を生む思想)」の復興がキーポイントであると断言できる。
「日本精神(和の精神=神が神々と人間と自然を生む思想)」の復興が進めば、自動的に一切の問題は解決に向かうであろう。(あまむし)