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2015-09-30 03:34 最新コメント:2015-10-04 21:01
343  国会デモ考察①(4)
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 安全保障関係法が成立した。例によって安倍総理の死んだふり作戦で、終わってみればすべて安倍総理のシナリオ通りという悲惨な結果?であった。余命は18,19日のデモに際し、密着取材をしていた。その報告を交えて関連を考察する。
 よく60年安保、70年安保と比較されるが、当時を知る者には「似ていても全く非なるもの」である。まず安保反対と戦争法案反対がかみ合わないし、そもそも日本という国の将来を案ずるのであれば日の丸1本も見えないデモなどあり得ない。これがすべてである。 ネットではさんざん流れているからここではふれないが、とにもかくにも一般国民の感覚から隔絶していた。デモ参加者がいわゆるプロ市民であって、一般学生も引いていた。デモそのものが一目見てわかる在日中国人や在日韓国人が集団をなしている異様な雰囲気で、普通の感覚では参加は不可能だったのは当然だろう。
 そのあたりは警備陣もよく分析していて、当日は機動隊の車両とバリケードだけで特別な警戒態勢は敷いていなかった。その結果、法成立のあとは潮が引くようにすべてが終わってしまった。
 この一連の安保法制の国会審議の間、安倍総理の「弱ったスタイル」「死んだふりスタイル」に廃案の可能性を信じて闘った連中は、哀れも哀れ、あぶりだされただけだった。
 絶対多数だけではなく、60年安保を徹底的に研究して対応していた政府に死角はなかったということだ。
 テロ3法成立後、適用について具体的な訓練を公開してきた。8月5日の国会テロ訓練では警視庁テロ特殊部隊が出動、法改正なしにもかかわらず、テロ事案の判断、武器の使用と殲滅処理を含めた交戦資格の付与をアピールしていた。
 これによって恫喝的、実力デモは現実には不可能となって、この時点で勝負あったと言えるだろう。民主党も共産党も政党としては腰を引いてしまった。結果として女子供を前面に出し、いつでもしっぽが切れるプロ学生と動員数確保のため、なりふりかまわず在日を使わざるを得なくなってしまい、国会内でも国会外でも、いわゆる朝鮮スタイルと称されるデモスタイルが出現することになったのである。子供の動員は日本共産党員や在日朝鮮人を主体とする事件となった大須事件を想起させる。
 現状では破防法よりは、より現実的なテロ法が成立しており、この関係の国民的理解も進んでいることから、テロに対する治安対策は強化されている。民主党のある馬鹿が国会警備について過剰警備なんてほざいていたが、どうも戦後の一連の事件を知らないらしい。
 従前、7月9日以降の対応に、国籍の確定と居住の特定は必須と記述している。これはこのデモに際して、万一、在日蜂起の場合、過去の在日朝鮮人祖国防衛隊のような地下組織を作らせないための用心であった。この担当が自衛隊であることは再三記述している。
 暴力団の拠点には自衛隊が監視、拠点配置されている。一方で、テロゲリラ化に備えて、極左、反日、在日組織のアジトの発掘には余命リストにあるようなあぶり出しが進められているのはその対策である。
  
 在日朝鮮人祖国防衛隊なんて聞き慣れない用語である。民主党も共産党も腰が引ける理由?だが、まさにそれこそ反日、共産党史であって、戦後の騒擾事案はすべて彼らが絡んでいるのである。以下、その関係資料はWikipediaからの部分抜粋である。
 戦後まもなくの混乱期の騒乱事件である。おそらく年数から考えて、ほとんどの日本人が知らないか、記憶が薄れていると思うが、いい機会であるから復習しておこう。

 祖国防衛隊は、在日朝鮮人によって1950年に結成された非合法地下組織。略称は「祖防隊」。
 1950年1月より、外国人登録証の更新及び未登録者(密入国者等)の強制送還が行われることになり、それに対抗するための非合法組織として結成された。同年4月には、上部組織として「朝鮮祖国防衛委員会中央本部」が設けられた。
 その後、レッドパージの実施や朝鮮戦争の勃発により、日本社会に革命情勢が到来。祖防隊はこれを奇貨として急ピッチで組織化を推進することになった。全国の在日朝鮮人集住地区に訓練所を設置し、密入国者や社会に不満を持つ在日朝鮮人等を勧誘して祖防隊に引き入れ、各種思想教育や訓練を行った。
 訓練の後、祖防隊員は日本共産党の非合法組織(山村工作隊や中核自衛隊)と共に、日本各地で韓国向け軍需物資の輸送の妨害を狙った暴動などの事件を起こして非合法な階級闘争を展開した。
 1952年に破壊活動防止法(破防法)が施行されて以降、暴動や非合法闘争に対する当局の対策・取り締まりが強化され、1953年に入ると朝鮮戦争も停戦となったため、非合法的活動も下火になった。その後、違法行為を放棄して護憲と平和の党へと戦略を転換していった日本共産党と、あくまでも反日の戦略を貫こうとした在日朝鮮人団体との間に溝が生じ、日本共産党との関係を断絶した。
 1955年には朝鮮総連が結成され、階級闘争・祖国統一事業は新たな段階に移ることになった。これにより、非合法闘争を行ってきた祖防隊は発展的に解散した。この歴史的経緯により、朝鮮総連は、2010年現在も公安調査庁から「破防法に基づく調査対象」との指定を受けている。

.....長田区役所襲撃事件
1949年から始まったドッジ・ラインにより、デフレーションが進行し失業や倒産が相次いだ。在日朝鮮人も例外でなく、失業者が激増した。こうした状況の下で、朝鮮人は「朝鮮人生活擁護闘争」を展開、地方税の減免や生活保護の適用を求めるために、各地の役所に押しかけるようになった。
 1950年11月20日午後1時、約200人の朝鮮人が神戸市長田区役所に押しかけた。要求は「市民税免除」と「生活保護の徹底」である。しかし区長がこれを認めなかったため、区長を軟禁状態にして騒ぎ出した。神戸市警察は直ちに出動、30人が逮捕された。
 11月24日午前11時、約300人の朝鮮人が再度長田区役所に押しかけ、区長との面談を要求した。区長が拒否したため、朝鮮人たちは区役所に乱入し、窓ガラス等を破壊した上、出動した警察官に対しても暴力を振るったため、不退去罪の現行犯として26人が逮捕された。
 11月27日朝、長田区にある西神戸朝鮮人学校に千数百人の朝鮮人が集結、神戸市警察は全警察官を総動員して対処した。朝鮮人は投石用の石や棍棒を用意するなど不穏な状勢となったため、正午頃に解散を命じたが、「犬め、殺してやる」「貴様等人民裁判にかけてやる」と暴言を吐いて命令を無視、午後3時20分頃には、学校から出てデモ行進を始めた。
 遂に警察は神戸市電湊川大橋停留所付近で検挙を開始したが、デモ隊は激しく抵抗し、約60人が逮捕された。その残党は新湊川沿いに北上、長田区役所や長田税務署を襲い、窓ガラスを割るなどした。最終的に179人が逮捕された。

.....大津地方検察庁襲撃事件
1950年12月1日午前10時30分頃、日本共産党地区委員や旧朝連の幹部ら3人が大津地方検察庁を訪れ、勾留されている同志の釈放を検事正に要求した。検事正がこの要求を拒否したところ、朝鮮人約100人が集まり検察庁内に侵入しようとした。大津地検は大津市警察に警察官の派遣を依頼、大津市警だけでは足りないため、国家地方警察にも救援を求めた。警察官到着後、検察庁は解散を命じ、実力で排除した。その際に2人を逮捕し、群集は一旦解散した。
 この日の大津市は雨が降っており、職にアブれた日雇労働者は失業認定のために公共職業安定所に集まっていた。手続き終了後、日雇労働者は大津市役所経由で大津地方検察庁に集まってきた。
 すると、先ほど解散した朝鮮人の群集が再結集して、日雇労働者の集団を巻き込むような形で、再度地検に突入してきた。日雇労働者は特に反抗的ではなかったが、朝鮮人は暴徒化し、警察官に襲いかかってきた。この事件で43人が逮捕された。

.....王子朝鮮人学校事件
1951年2月23日、蒲田警察署は占領目的阻害行為処罰令違反容疑で、東京都立朝鮮人中高等学校(今の東京朝鮮中高級学校)の生徒1人を検挙した。捜査の結果、当時のGHQが禁止していた「新朝鮮」「前進」「朝鮮女性」等のいわゆる反占領軍的な印刷物を作成していたことが判明し、2月28日に同校を家宅捜査し、証拠物件を押収した。
 しかし、翌日3月1日は三・一独立運動記念日であったため、朝鮮人たちは「不当弾圧」と激昂し、所轄の王子警察署に300人、隣の板橋警察署に400人、赤羽警察署に40人が押しかけて抗議した。
 そして3月7日に「真相発表大会」と称する集会を学校内で開催、抗議デモを行うことになった。
 1951年3月7日当日、王子警察署は周辺の道路を封鎖し、同校生徒以外の群集の流入を阻止しようとしたが、群集はそれを無視し最終的に2000人が集まった。
 集会は午前10時から始まった。一方、学校外にいた群集が警察隊に対し、投石や唐辛子粉の噴霧など抵抗したため、ある警察官が付近の民家の2階から写真を撮ろうとした。しかしそれを見た群集が民家に乱入、その警察官に暴行を加え、カメラを破壊した。
 応援に来ていた蔵前警察署員が救出しようとしたが、逆に返り討ちにあい、重軽傷を負わされた上、拳銃や警棒などが奪われた。
 警視庁は、遂に群集を強制的に解散させることを決断、警官隊が校内に突入しようとした。群集は煉瓦や石を投げつけるなど強硬に抵抗したが、午後2時50分までに全員を校外に排除した。警察はこの事件で28人が重軽傷を負った。
 警察は、事件の関係者12名を公務執行妨害罪、傷害罪、暴力行為等処罰ニ関スル法律違反で逮捕し、うち6名が検察により起訴された。

.....東成警察署襲撃事件
1951年11月10日午後6時頃、大阪市警視庁東成警察署の警察官が泥酔している在日朝鮮人男性を発見、保護した。保護後、男性の容態が急変し、治療の甲斐なく午後7時30分死亡が確認された。
 司法解剖の結果、死因は肝臓が破裂したことによる多臓器不全であった。彼は泥酔しながら自転車に乗り、誤って転倒した時に身体を強く打ち、動けなくなったところを警察官に保護されたのであった。
 翌日、署長は面会に訪れた遺族に、事の次第を詳細に説明したが、朝鮮人は男性の死を警察官のリンチによる殺害と決め付けて、一方的なデマを流し、東成警察署に抗議するようになった。
 1951年12月1日午前11時頃、朝鮮人たちは旧御幸森朝鮮人小学校(今の大阪朝鮮第四初級学校)に集まり、東成警察署までデモ行進した。
 その後、気勢を上げて署内に突入しようとしたので、大阪市警視庁機動隊はそれを阻止した。その際デモ隊は、投石や唐辛子を投げつけて抵抗した。この事件で3人が公務執行妨害罪で逮捕された。

.....親子爆弾事件
朝鮮戦争勃発後、日本経済は特需景気に沸き、大阪市東部の町工場では「親子爆弾(現在の用語ではクラスター爆弾)」を製造していた。
そんな最中、ある朝鮮人の事故死をきっかけに東成警察署襲撃事件が起きるなど、東成区一帯が緊迫した空気に包まれ始めた。
 1951年12月16日午後、前述の事故死した朝鮮人の慰霊祭が執り行われた。慰霊祭には遺族などの関係者だけでなく、生前に何の縁のない朝鮮人が赤旗やプラカードを持って多数参列した。生野警察署は不穏な空気を察して解散命令を出したが、群衆はそれを無視し三つの部隊に分かれてデモ行進した。
 第一部隊は、生野区にある工場を襲撃しようとしたが、大阪市警視庁機動隊に阻まれて解散させられた。別働隊が某工場の侵入に成功し、親子爆弾を撒き散らした。
 第二部隊は、中河内郡巽町(現在は生野区内)方面に向かい、2ヶ所の工場を襲って、従業員を暴行したり施設を破壊したりした。
 第三部隊は、東成区方面に向かい、2ヶ所の工場を襲った後、民団鶴橋分団長の自宅を襲撃した。

.....血のメーデー事件
GHQによる占領が解除されて3日後の1952年(昭和27年)5月1日、第23回メーデーとなったこの日の中央メーデーは、警察予備隊についての「再軍備反対」とともに、「人民広場(注:皇居前広場)の開放」を決議していた。本来のデモ隊の解散予定であった日比谷公園から北朝鮮旗を翻した朝鮮人を含む一部のデモ隊がそのまま皇居前広場に乱入するなど暴徒化して混乱は午後5時半ごろまで続いた。
 この日、行進を行ったデモ隊の内、日比谷公園で解散したデモ隊の一部はその中の全学連と左翼系青年団体員に先導され、朝鮮人、日雇い労務者らの市民およそ2,500名がスクラムを組んで日比谷公園正門から出て、交差点における警察官の阻止を突破して北に向い、その途中では外国人(駐留米国軍人)の自動車十数台に投石して窓ガラスを次々に破壊しながら無許可デモ行進を続け、馬場先門を警備中の約30名の警察官による警戒線も突破して使用許可を受けていなかった皇居前広場になだれ込んだ。これに対し警視庁は各方面予備隊に出動を命じた。

 乱入したデモ隊は二重橋前付近で警備していた警察官約250名に対し指揮者の号令で一斉に投石したり、所持していた棍棒、竹槍で執拗な攻撃を繰り返して警察官1名を内堀に突き落とし、他の多くの警察官も負傷する状態に至り警察部隊は止むを得ず後退を始めた。 応援の予備隊が到着してその総数は約2,500名となったがデモ隊は数を増して約6,000名となった上、組織的な攻撃も激しくなった。警察部隊は催涙弾を使用したが効果は上がらず、警察官の負傷者が増加したため、身体・生命の危険を避ける目的で止むを得ず拳銃を発砲し、ようやくデモ隊は後退を始めた。
 この間にもデモ隊は警察官3名を捕え、棍棒で殴打して重傷を負わせ外堀に突き落とし、這い上がろうとする彼らの頭上に投石した。同時に別のデモ隊は外国人自動車等に棍棒、石ころを投げ、駐車中の外国人自動車十数台を転覆させて火を放ち、炎上させた。デモ隊と警察部隊の双方は激しく衝突して流血の惨事となった。デモ隊側は死者1名、重軽傷者約200名、警察側は重軽傷者約750名(重傷者約80名が全治三週間以上、軽傷者約670名。さらに1956年1月に頭部打撲の後遺症で法政大学学生1名が死亡)、外国人の負傷者は11名に及んだ。
 当日は警察予備隊の出動も検討されていたが、一般警察力によって収拾されたため、出動を命じられるには至らなかった。出動した警視庁予備隊は後の機動隊であり、警察予備隊とは異なる。
 デモ隊からは1232名が逮捕され、うち261名が騒擾罪の適用を受け起訴された。裁判は検察側と被告人側が鋭く対立したため長期化し、1970年(昭和45年)1月28日の東京地裁による一審判決は、騒擾罪の一部成立を言い渡したが、1972年(昭和47年)11月21日の東京高裁(荒川正三郎裁判長)による控訴審判決では騒擾罪の適用を破棄、16名に暴力行為等の有罪判決を受けたほかは無罪を言い渡し、検察側が上告を断念して確定した。
 国会では事件直後から事件の責任をめぐり与野党間で激しい応酬があり、6月には相次ぐ騒乱事件の対処不手際や破壊活動防止法案・集団示威運動等の秩序保持に関する法律案の制定企図に反対する立場から衆議院で木村篤太郎法務総裁の不信任案が提出されたが、否決された。
 なお、同時期に白鳥事件、吹田事件、大須事件、曙事件や中核自衛隊・山村工作隊による事件など起こった。一方で、公安警察による菅生事件も起きた。事件発生の5ヵ月後に行われた総選挙で日本共産党は全議席を失った。同水準の議席数を回復したのは1970年代のことであった。 つづく

  1. >民主党のある馬鹿が国会警備について過剰警備なんてほざいていた

    すみません。爆笑してしまいました。ヨシフですね。あの馬鹿って。
    この一刀両断が、余命さんの魅力の一つです。

  2. 帰化人のデモや国会での騒動には怒り心頭です。
    一人でも多くの日本人が覚醒してくれることを望みます。

  3. ヤクザの拠点を自衛隊が監視しているのですね。それは心強いです。連中が武装隆起した途端に鎮圧でしょうから。朝鮮戦争時の混乱を警察では抑えきれなかった教訓が生かされているのですね。しかも敵に気が付かれないように戦力を配備してしまうところは圧巻です。

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