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2016-12-14 19:42
1374 横浜市教育委員会外患罪告発資料(0)
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横浜市教育委員会外患罪告発資料

外患誘致罪を予告していた事案である。日本人を貶める確信的犯罪行為として告発することになる。

ななこ
横浜市教育委員会が圧力に屈しました。「関東大震災(一九二三年)での朝鮮人・中国人虐殺」を「朝鮮人や中国人が殺害される痛ましい事件が起きた」との表現で副読本に記載すると報道されました。外患誘致罪リスト入りではないでしょうか。
 私見では、このような恣意的な取り上げ方は言語道断であり、当時の記録は田山花袋氏による「東京震災記」が現場ルポとして非常に優れており、中には不逞鮮人の動向や日本人自警団に取り締まられ連行される描写もあり、これ以外のものが必要とは思えません。 田山花袋氏による誠実な記録を破壊し、朝鮮人の捏造歴史に加担する動きとして、横浜市教育委員会は外患誘致罪に該当すると考えます。
 なお、横浜市立図書館は横浜市教育委員会の管轄であるため、「余命三年時事日記」が全図書館でたった2冊だけしか所蔵されていないという理由もこの教育委員会(横浜市の教育担当すべて)にあると思われます。

■東京新聞 【社会】
関東大震災「朝鮮人や中国人が殺害された」 横浜の副読本、草稿では削除
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201612/CK2016121402000120.html
 横浜市教育委員会が発行する中学生向けの副読本の改訂版で、草稿段階では削除されていた「関東大震災(一九二三年)での朝鮮人・中国人虐殺」の記述について、市教委が市民団体の批判を受けて「朝鮮人や中国人が殺害される痛ましい事件が起きた」という表現で復活させる方針を固めたことが関係者への取材で分かった。来年三月までに市立中学校の全一、二年生に配布する。 (志村彰太)
(中略)
 市教委は記述を再検討し、十二月に入り、おおむね内容が固まった。それによると、原稿は「死者二万三千人、行方不明者三千人、けが人四千二百人」などと大震災の横浜の被害者数を明記。その上で「混乱により根拠のないうわさが広がり、朝鮮人や中国人が殺害される痛ましい事件が起きた」と表現。「どうしてこのようなことが起きたのか、調べてみよう」とも記す予定で、「虐殺」の文言はないが、殺害の背景や原因の問い掛けも載せ、生徒に調べさせるよう誘導している。
 市教委に要望書を出した「歴史を学ぶ市民の会・神奈川」の北宏一朗代表(75)は「虐殺の文言がないのは残念だが、全く触れていなかった草稿からは大きな前進だ」と評価している。
【魚拓】
http://archive.is/IeGP6

■横浜市教育委員会
所在地
横浜市教育委員会事務局
〒231-0017 横浜市中区港町1-1
電話: 045-671-3240 – FAX: 045-663-5547 (総務課)
教育委員
教育長 岡田 優子(おかだ ゆうこ)
教育長職務代理 委員 今田 忠彦(いまだ ただひこ)
委員 間野 義之(まの よしゆき)
委員 西川 温子(にしかわ あつこ)
委員 長島 由佳(ながしま ゆか)
委員 宮内 孝久(みやうち たかひさ)

■東京震災記 田山花袋
※この目次の中で、「不逞鮮人の騒ぎ/動揺―雑踏―流言/瓦斯タンク/無気味の夜/不思議な竹の皮草履」までは、朝鮮人が窃盗や放火並びに暴力沙汰を起こしたことが文学的に綴られており、当時の世相がよくわかります。自警団に連行もされています。また、後半の目次には、外国人が見た日本人の素晴らしさも述べられています。これだけの教育的価値ある記録を資料とせずして、なぜ朝鮮人の圧力だけに従うのか理解できません。

■震災の中の日本人評
『日本人、えらいですな! こういう災厄に逢っても、びくともしない。決して慌てない。それに親切だ!これは私達の国ではとても見られないことです』その外国人はこんなことをさも感激したように言って、救恤に路傍に出されてある握飯をさも旨そうにして食った。『こんなに日本人は親切だとは思わなかった! それ、御覧なさい! このシャツを!』こう言ってそれを引っ張って見せて、『これは、あの吉浜というところで、私が裸体で歩いていると、気の毒がって、路傍の見ず知らずの人がくれたんですよ。本当に、この地震で、日本人がわかった! 日本の本当の親切ということがわかった!』こうその外人は続けて言った。

■目次(前半)
この世の終りかと思った/一寸先きはわらかない/金棒の音/混乱したシインがシインに重って/表現派の絵/Sの話/I君の話/その時のさま/『オッ地震』/瓦の落ちる音/白い不愉快の雲/その雲に当った夕日/『下町はえらい火事だ』/裸蝋燭が一本/大きな梧桐の上から見た火事/私は出かけた(三日目)/赤坂離宮前の混乱/四谷見附の角/『食糧は送られつつあり』/一面の焼野原/ゲイトルに草鞋ばきのU氏/U市との対話/靖国神社の中の避難者/宇都宮の師団らしい兵士/九段の坂の上から見た焼野原/焼け落ちた租橋/散水井の詩/街上に不思議な怪物/焼けているお茶水橋/帰路/不逞鮮人の騒ぎ/動揺―雑踏―流言/瓦斯タンク/無気味の夜/不思議な竹の皮草履/五日目に再び/牛込改代町の崩壊/本郷台から厩橋へ厩橋の群集/死屍/河岸の悲惨な光景/隅田川/吾妻橋から枕橋へ行く間/源森橋から小梅へ/私の『廃墟』/『まア先生……』/かれらの話/百花園の避難者/被服廠/まるで炭団でも積み重ねたように/回向院の仏像/両国橋の雄姿/柳橋の狭斜街/廃墟/須田町の角/駿河台のニコライ堂/青い赤い仁丹の広告燈/弟/玄米しかない/二、三十年も逆戻り/須田町から銀座へ/丸善の崩壊/銀座の今昔/日比谷まで/雑沓した電車/再び表現派の絵/『また火事か』/日比谷公園の避難者/活動写真撮影/丸の内/丸の内ビルディング/不忍池の蓮/横浜の埠頭/ある船頭の話/箱根から東京までの汽車のレイルの上

■復刻版「東京震災記」解説 東京大学新聞研究所 廣井脩
http://cidir-db.iii.u-tokyo.ac.jp/hiroi/pdf/article/9127.pdf
関東大震災は近代の日本人が経験した最大の災害であり、かつ最大の悲劇だった。そのため、関東大震災の後には膨大な数の出版物が刊行され、この稀有な出来事を克明に記録している。(略)なかでもとくに、文学者たちの震災体験記や震災見聞記は、実におびただしい数にのぼった。(略)
 田山花袋の『東京震災記』もそのひとつ。ご多分にもれず、花袋も震災直後に「何も悲観するには及ばない」とか「震災を機縁として」とかいう小文をものしているが、あらためて稿を起こし、震災体験をまとめて大正13年1月に刊行したのが『東京震災記』だった。
 当時小石川に住んでいた花袋は、幸運にも地震の被害を直接に受けなかった。だから、その体験といっても避難者を受け入れたり、消息の知れない友人をたずねたり、焼け跡になった市内をほっつき歩いたりするだけである。その意味では、長田幹彦のような迫力に欠けているし、当時の花袋は50才でもはや晩年に近かったため、田中貢太郎のように残酷な場所にズカズカと立ち入ることもない。
 けれども、わたしの興味をもっとも引きつけるのは、廃墟をみるたびにかれが吐露する一種の無常観である。くわしくは本文をみてもらいたいが、これは、花袋の著作『東京の三〇年』に貫かれている、滅びゆくものへの深い哀惜の念と共通するものであろう。けれども一方では、それこそ鴨長明以来の、災害にたいする日本文学の主要な見方ともいえるし、また日本人一般の災害観を強く反映しているともいえるのではないだろうか。そしてなにより、『東京震災記』を読むと、震災当時の東京の混乱ぶりや騒然とした雰囲気が手にとるようにわかるのも興味深いことである。東京にいつ直下地震が起こるかわからないといわれている今日、震災に感心をもつ人にぜひ一読をおすすめしたい。

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